宮崎正弘の国際ニュース・早読み(書評 上念司『経済で読み解く大東亜戦争』) [宮崎正弘の国際ニュ | Hideoutのブログ

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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。



  毎回、考えさせられます。今回のISIL問題に対する九条信者達が、二重写しに見えるのは僕だけでしょうか?


宮崎正弘
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 樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1193回】     
    「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田6)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
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 凡そ交渉事は、相手を相手以上に知り尽くしたうえで臨むべきものだろう。にもかかわらず、幕吏には事前の周到な準備がなかったようだ。そこで勢い、ぶっつけ本番。かくして無手勝流に奔る。「受太刀もしどろもどろとな」り、結果として口を滑らせ「餘りに正直なる應答」をしてしまい、相手の術策に嵌りこみ、言質を与えてしまうのが関の山。こちらの狙いは相手に見透かされてしまう、という悲惨な結果・・・トホホ、である。

以上を中牟田の評語で綴れば、道台の「辭令巧妙」に対するに、「先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり」。「探らるゝ質問」に、如何せん「受太刀」。「質問益々鋭利」になるばかりで、「受太刀もしどろもどろ」。「追窮少しも緩まず」、答に窮して「赧顔の至り」。「知らんとする要領は皆知りたり」と相手の余裕十分な態勢に引きずり込まれ、思わず「餘りに正直なる應答」に逼られる。そこで背中を冷たい汗が流れる始末。かくて「流石に氣の毒にもあり」と「温顔にて慰め」られれば、冷や汗を拭き拭き「吻とす」・・・これでは外交交渉を有利に進められるわけもなく、外交上の果実を相手に献上したも同然だ。

だが、これだけでは終わらない。次なる舞台が設えてあった。別室での宴席である。

極度の緊張から解き放たれたからだろう。ついつい口が軽くなる。宴席で幕吏は1842年の南京条約で対外開放された上海・寧波・福州・厦門・広州の5港のみならず、天津・漢口への日本船の入港は可能かと尋ねた。道台は「差支えなし」と応じているが、その種の質問は正式交渉の席で問い質すべき事項だろう。酒席での話はその場限りで、公式発言とは見做されない。おそらく道台は幕吏の外交音痴に呆れたはず。

 だが、その続きがあった。道台が去った後、なにを思ったのか幕吏は突然オランダ公使に向かって、「道臺は才子と相見え申候(いや 、道台はデキ申す)」と。加えて、あろうことか「遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや」などといった愚にもつかない、いや相手からバカにされるに決まっている質問まで。主張すべき場で主張すべきを口にせず、いうべからざる席でいわずもがなを話題にする。オランダ公使を“身内”と思い込んでの軽口だろうが、味方は敵に、敵が味方に豹変することを肝に銘ずるべきだ。軽率が過ぎる。交渉担当者としては最悪・最低の振る舞い。バカにつける薬はない。失格!

 中牟田のみならず高杉もまた、千歳丸の幕吏は役不足の小役人であると綴っているところからしても、交渉不首尾の原因は幕吏の能力不足に求められそうだが、やはり長かった鎖国もまた大きな要因として考えるべきだろう。

 それしても、である。すでに幕末の時代から外交交渉下手だったとは。「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」とはプロ野球の野村元監督が口にする“格言”だが、確かに負けるべくして負けたというのが、道台対幕吏の談判だったように思える。あるいは文久2(1862)年の上海での外交交渉の席における幕吏の振る舞いがトラウマとなって、現在まで続く日本の対中交渉を縛ってきたのではなかったか。そう“牽強付会”でもしないかぎり、日中国交正常化交渉以後の一連の対中外交の弱腰ぶりは説明できそうにない。

 中牟田は英語が達者であったからか、イギリス、アメリカ、オランダ、ベルギー、ポルトガルなど上海在住の欧米人と精力的に接触を重ねている。なかでもジャーデン・マセソン商会と同じく鴉片貿易で財をなしたデント商会を2回訪ねているのが興味深い。両商会は開港場となった横浜に最初に支店を置き、阿漕な商法で日本の業者を翻弄したことで知られる。それもそのはず。彼らは海賊の子孫、いや海賊のDNAを持つ商人なのだから。

 デント商会を訪ねたのは、同社で働いていると長崎で聞いた尾張の漂流民の「乙(ヲト)」と面談したかったからだ。「乙」とは、拙稿1147回で話題にした登場した音吉である。
《QED》

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 樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1194回】   
     「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田7)
「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
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 中牟田は「『乙(ヲト)』は漂流して後、上海に住めども、日本の恩義を忘れざる旨を嘗て長崎にて傳聞したりし故、面會して見たしと思ひ、訪問せり」と綴る。すでに長崎でも上海に在住する漂流民音吉が話題となっていたわけだ。

だが、中牟田が音吉と言葉を交わすことは叶わなかった。妻子を伴い先月上海を離れ外国に向かった。「普魯西亞(プロシャ)人」と結婚し、2人の間に子供は2男1女の3人。長男は8歳前後で、一家全員が西洋人の服装である  これがデント商会の説明だった。どうやら音吉は西洋式の生活を送りながらも、「日本の恩義を忘れ」なかったのだろう。

 後日、中牟田が再びデント商会を訪ね音吉の行き先を問い質すと、シンガポールに行ったとのこと。音吉の弟を称する人物を訪ねたが、日本人であることを隠し、真実を聞きだすことはできなかった。

 かりに中牟田が音吉から話を聞きだすことが出来たなら、アヘン戦争に英国軍兵士として参戦した音吉から、アヘン戦争のみならず英国事情やらデント商会のアヘン商法の一端、さらには上海での交易の実態など多くの情報や知識を得ることができただろう。音吉のシンガポール行きが少し遅く、千歳丸の上海着が少し早かったら、と思うばかり。

 これまた某日、中牟田は高杉と夜間の散歩に出る。横濱滞在歴を持つと自ら語るアメリカ人に自宅に誘われ、大阪港開港問題について問い質された。大阪港が開かれれば直ぐにも向かいたいところだ。当地の新聞では将軍は開港の意向だが、最強硬派の水戸藩を先頭に多くの大名は開港反対の立場をとっていると伝えられるが、真相は如何に。内政上の微妙な問題であるうえに、相手のアメリカ人の氏素性も質問の狙いも判らない。そこで中牟田は答をはぐらかした。一方の高杉は、犠牲を厭わない大義のために勇猛果敢に邁進する水戸藩の動向を、西洋人が注視するのも当たり前だろう、と。

 またまた某日、高杉と連れ立って清国軍の練兵ぶりを見学した。青竜刀やら火縄銃やら。その旧式ぶりに唖然とする。帰路に南大門を守備する知り合いの所に立ち寄り問い質すと、やはり洋式銃を使って、英仏兵の指導・支援を受け入れた場合には、太平天国軍も恐れるに足らず、と。かくて2人は、やはり中国伝統の兵術は西洋銃隊の前では全く意味をなさないことを知る。西洋諸国の圧倒的軍事力を前にしては、勇ましくはあるが攘夷の掛け声は所詮は蟷螂の斧にすぎないことを悟ったのではないか。

中牟田の経歴を見ると、長崎海軍伝習所を経て佐賀藩海軍方助役。維新後は海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力し日清戦争前には海軍軍令部長に。栴檀は双葉より芳しいの伝で、上海滞在中、航海術について熱心に学ぼうとしている。

高杉は「上海掩留日録」に、宿舎に留まって中牟田と共に「航海有益之事」を論じた旨を記し、「運用術、航海術、蒸氣術、砲術、造船術」などの航海学全般の「科課程」を学びたいとの中牟田の念願を書き留めている。この時、中牟田は病床に在り、高杉は看病の傍ら筆録したことだろう。

尊皇か佐幕か、攘夷か開国か。現在のように即時的でないことは当たり前だが、風雲急を告げる故国の情勢は遠く上海の地のも逐一伝わる。浮足立つ中牟田、高杉ら。一方の幕吏にしても当初の目論見は大外れ。日本から運んだ千歳丸積載の貨物は思うようには捌けない。長逗留すればするほどに損失は募る。そうなったら、責任が発生してしまう。だが責任は負いたくない。逡巡の末、上海出港を決定した。

かくて再び荷物を積み入れ、外交儀礼に従って道台への挨拶も終えて乗船した。乗船以来黄疸を患い、中牟田は船中病臥したままで、風雲急を告げる日本に戻っている。
《QED》
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  置かれている状況は、当時とは随分違いますが、長い鎖国での盲目状態と自虐史観に目を眩ませた現在、似通っていると思いませんか?

  有意の志士たちが奮戦したお陰で植民地支配を免れました。しかし、現在は社会のあらゆる所にシナチク?キムチが存在して、我々日本人の覚醒の邪魔をしています。日本人として自覚し、日本の未来をもう一度考えてみませんか?

  取り戻しましょう、この手に!真の日本を作りませんか、日本人で!