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 四月に古稀を迎える爺ののブログです。

 日本を取り戻したい……そんな事をエントリーしたい。

 覚醒したら、こんな見方になるのかなと言うものに。



  例によって、高杉晋作の上海渡航時の同行者達の記録です。


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 樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1190回】      
     「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田3)
「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
  △
 9日、一行は千歳丸からオランダ領事館に隣接する宏記洋行に移る。ここが上海滞在中の宿舎。中牟田は木村傳之助、名倉予何人、高杉晋作と同室だった。
木村と名倉は御徒目附・鍋田三郎衛門、中牟田は御小人目附・鹽澤彦次郎、高杉は同じ御小人目附・犬塚 三郎、各々の從者であり、鍋田・鹽澤・犬塚の3人が同室だったことから、從者もまた同室ということになったのだろう。

そういえば名倉の「海外日録」「支那見聞録」には、中牟田の「上海行日記」や高杉の「遊清五録」と重なる記述が散見される。ということは、同室の3人は行動を共にする機会が多かったと考えられる。記録は残されていないものの、木村もまた同じではなかったか。
次の一件も中牟田1人の体験ではなく、高杉も名倉も同行していたようでもある。

上海滞在も1ヶ月ほどが過ぎた6月9日、上海市街から宿舎に戻る際、上海の城門閉鎖の門限に遅れてしまった。開門を要求するが、城門を守備するフランス兵は規則を盾に聞き入れようとしない。
すったもんだの挙句、兵卒頭がやってきて日本人はフランス領事の客分だから開門せよと命じ、やっと開門させた。門の内外には多くの中国人が待っていたが、彼らの要求は無視された。
いわば日本人は?準西洋人”としての扱いを受けたわけだが、この体験を中牟田は、「西洋人え相頼、門番爲致候處より、自國之城門を自國之人出入不叶様相成、賊亂之末故とは乍申、餘り西洋人之勢盛ナルコト、爲唐人可憐。支那之衰微、押て可知候也」と慨嘆し、さらに「近來段々西洋人北京へ住居罷在候由、之は後には北京城も西洋人え防方相頼候哉と被考候」と続ける。

  上海の防備を西洋人に依頼したことから、自らの国土でありながら清国人は自由通行が許されない。太平天国に起因する混乱とはいえ、西洋人の力は強すぎる。「唐人」は惨めなものだ。ここからも「支那之衰微」を推し量ることができる。西洋人は北京に住むようになったとのことだが、いずれ近い将来、北京の城(まち)の防衛も西洋人に依頼することになろうかと考える  

じつは納富は「或ヒトノ話」として、同じような経験を「上海雑記 草稿」に綴り、「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」と慨嘆を洩らす。
拙稿(1173回)では「或ヒト」を名倉としておいたが、どうやら納富の言う「或ヒト」は中牟田ではなかったか。おそらく中牟田が事の一部始終を同室の名倉(ということは高杉にも)に伝え、名倉が納富に話した。かくて彼ら「從者」の間で話題になったということだろう。

いずれにせよ国力の衰え、西洋人の横暴、自国の中ですら自由に往来することができなくなってしまった清国人。一歩油断したら、日本にも同じ災難が降りかかることを自覚したはずだ。

ここで、参考までに同室・高杉は「上海掩日録」の「(五月)廿一日」の条を見ておくことにする。

この日は終日暇だったらしく、「上海之形勢」をじっくりと観察する機会を得た高杉は、「支那人盡爲外國人之便役英法之人歩行街市、清人皆避傍譲道、實上海之地雖屬支那、謂英佛屬地也、又可也、〔中略〕雖我邦人、可不須心也、非支那之事也」と記している。

  「支那人」は悉く外国人の使い走りとなり、イギリス人やフランス人が街を歩くと、「清人」は誰もが道を譲る。上海の地は支那に属しているはずなのに、実際はイギリスとフランスの属地といってもいいほどだ。日本人としても心せずにはいられない。なぜなら、これは「支那」のことではないのだから  

上海のブザマな姿から、明日の日本に思い馳せたに違いない。危機だ。国難だ。
《QED》
                         
もう二本、つづきます
                         

 1191                      
     「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田4)
「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 

  △
 上海のブザマな姿を、中牟田は綴る。
 「一、孔夫子之廟、當時別所に變じ、英人の陣所と相成居申候由、誠に可憐也。
  一、賊亂を遁れ來り小舟之内、又は土地に蓙を張、雨之防を致し、其内に住居致し居候者多數、地行人數之半も可有之歟。其故平生乃上、猶又キタナク有之候由、右之者共之様子を見候に、誠に可憐也。

  一、所々に英佛兵野陣を張居候事。
    附り、帆木綿にて拵たるものを地上に張り、雨防致し居候事情。」

   中国文化にとって至誠・至高であるはずの孔子像すらもが取り外され、別の場所に移動された挙句に、聖域中の聖域であるべき孔子廟は英軍兵士の宿営と化した。太平天国を逃れた無辜の民は、到る所で悲惨極まりない難民生活を余儀なくされている。
上は至誠・至高の孔子から下は無告の民まで、「誠に可憐(誠に憐れむべ)」き情況に在る。一方、英仏軍兵士は各所にテントを張って駐屯している  

すでに清国は清国でありながら、じつは清国ではない。自分の国でありながら、自分の国ではない隣国の姿を目の当たりにして、中牟田は清国側に立つイギリスの狙いを推測してみた。

「長毛賊、耶蘇を信ずる様子、外國器械を多く用いゆ。大砲なども外國砲を用ゆる様子(小さい字で「英人云亞米利加人與之、或云英人私に與るならん」と注記)/英吉利斯は、表は爲清朝、長毛賊を防ぐと申し、内には長毛賊に好器械などを渡し、私に耶蘇?を施し、其實は、長毛賊を以て清朝を破らしめ、己清朝を奪ふ落着ならん。又毛長之方には、豫め耶蘇?を信じ、英吉利斯などを己が身方に致し遂に清朝の天下を奪ひ度、落着なり。天下を奪候得ば、英吉利との儀は如何とも可相成と策謀なせし様思はる。」

   太平天国はキリスト教を信じているとのことであり、西洋の武器を多用している。大砲なども西洋製だ。(イギリス人はアメリカ人が供与しているというが、イギリス人が秘密裏に渡しているとも伝えられる)イギリスは表面的には清朝のために太平天国の攻撃を防禦するなどといってはいるが、内々に太平天国側に高性能兵器を供与するだけでなく、秘かにキリスト教を布教している。ということは、じつは太平天国によって清朝を敗北させ、清国を奪い取ろうという魂胆ではないか。天下を奪い取ってしまえば、中国は自分のものといってもいい。思うがままだ。これがイギリスの策謀というものだろう  

 おそらく中牟田は、清国における清朝と太平天国の対立と混乱に対処する英仏両国の振る舞いから、英仏両国の日本における策動に思いを巡らしたに違いない。勤皇か佐幕か、攘夷か開国か  終わりなき死闘が繰り返され、社会の混乱と動揺が続くなら、その間隙に乗じた英仏両国が日本を属国化させないとも限らない。今日の清国が直面する悲惨な姿が、明日の日本に重なってきたはずだ。

 かくて中牟田は俄然、太平天国研究をはじめる。6月12日にミューヘッドと称するイギリス人から太平天国について書かれた4冊の本を借り、翌日は「終日寫本」。19日から27日までも宿舎に留まって「賊の書」を写した。「上海滯在中雜録」には『太平軍目』『太平禮制』『太平條規』『建天京於金陵論』などの書名が記されているが、これらを購入したのか。ところで高杉晋作が「外情探索録 上海総論」に「中牟田所寫之書、天理要論、〇太平詔書、太平禮制、天命詔書、〇資政新篇、看鼻隨聞録」と記しているところから判断して、宿舎での同室が関心を抱くほどに、中牟田は太平天国研究に打ち込んだようだ。

 崩れゆく清朝の背後に英仏の侵略の牙・・・中牟田の心は奮える。日本危うし。
《QED》

    
    
1192回】               
    「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田5)
  「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
  
 某日、幕吏はオランダ公使の許を訪ね、千歳丸による渡航の当初目的である上海港での貿易の可能性について打診している。石炭やら人参やら、持参した品々が当初の目論見と違って売り捌けそうにない。オランダ側は値引けば売れると助言するが、長崎の相場に較べ安すぎる。かくして、持ってきたものをそのまま持ち帰るしかなかった。残念ではあるが、これが国際貿易の現実だったのだ。

 某日、道台がオランダ公使を訪問するというので、日本側はオランダ公使の許に出向き、道台と会談することとなった。そこで中牟田の記録に基づいて、その場の遣り取りを再現してみたい。なお●は幕吏、■は道台で、それぞれの話を簡略に現代語訳。中牟田の評語は原文のままとし《 》で括っておいた。
 双方の挨拶終わると、

 ■過日は当方をお訪ね戴きながら、返礼が遅れ申し訳ない。
《呉道台の挨拶也。辭令巧妙、先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり》
 ●過般は一同過分な饗応に与り感謝致します。
 ■商売の手応えは如何ですか。
 《探らるゝ質問なり。幕吏受太刀となる》
●あまり捗々しくありません。
■ともかくも初回でもあることですし・・・。
 《質問益々鋭利、受太刀もしどろもどろとなる》
●帰国後、政府に報告したうえで再度の訪問もありますので、その旨をお含み願いたい。
■持参された物資は残らず捌けましたか。
 《追窮少しも緩まず。幕吏赧顔の至りなり》
●残らず捌くつもりでおりましたが、いまだ所期の成果を挙げてはおりません。
■上海には何時頃までご滞在で。
●未定。日本人には芳しくない気候でもあり、持参物資が売りさばけ次第、可能な限り早めに貴国の心算です。
《知らんとする要領は皆知りたり。餘りに正直なる應答にて、流石に氣の毒にもあり、道臺、温顔にて慰めて曰く、》
 ■上海は貴国と近い。蒸気船なら2,3日で往復できますので、時々、お越し下さい。
  《道臺を免れて幕吏吻とす》
●近日中に道台の役所に参上し、種々ご相談致したく。
■過日は結構な品々を賜り深謝。日々、楽しんでおります。
●つまらないもので恥じ入る次第です。(原文は「些少の品にて恥入候」)
■日本製品は殊に品質に優れており、驚くばかりです。

清国は亡国の瀬戸際に立ち、上海は英仏両国に守られて僅かに命脈を保つ始末  まさに惨状というべき情況だが、緩急自在で巧妙な外交手腕は健在だったらしい。その姿は、「餘りに正直なる應答」に終始する幕吏とは対照的だ。時にたわいのない挨拶で、時に日本製品の素晴らしさを讃えて座を和ませ、肝心の貿易工作が不調であることを探り出す手腕に幕吏はタジタジ。「道臺を免れて幕吏吻とす」とは、道台に翻弄されるがままに終始した「受太刀」の幕吏の緊張が解けた瞬間の姿が浮かぶようだ。まさにホッ。

だが、これは幕末だけに限るまい。共産党政権成立以後、いや、それ以前にしても、日中交渉に際し、日本側は「餘りに正直なる應答」に終始しすぎたのではなかったか。
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  前回だったか、前々回だったかには、太平天国軍での食人の有った事が載っていましたが、今回も中々興味深いものですね。

  学校の授業って何だったのでしょうか? 事実は教えたが、その本質に迫ったとは言えなかったという事なのでしょうか? 誰がこんな作為的な教科書を作り、教える様にしたのでしょうか?

  日本の歴史を再度、学び直してみませんか? 本当の歴史を知る事は、日本人の心と誇りを取り戻す事だと思いませんか? その視点に経つと、現実の事象も全く違ったものに見えることでしょう!

  日本を取り戻しましょう、日本人の手に!