さよならお父さん | OKバレンタインEX

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1月10日に父が亡くなり次の日に安置所で葬儀の打ち合わせをしました。

母が脳梗塞で老健に入っていて胃ろうなので長い間外出ができないのとお金がかかるのと兄が東京メトロの仕事があるので長い間休めないので一日葬と家族葬にしました。
しかし葬儀の打ち合わせすると葬儀の場所や火葬場を決めるのやプランでなかなか時間が合わなかったりお金がかかったりなんだよね。
私は死にたいと思うことがしょっちゅうあるがこの打ち合わせを見ると周りに迷惑をかけたくないので死にたくても死ねない
すごく辛くなってきました。

そして13日に母を葬儀に向かうのにどうするかケアマネジャーと話し合いをするため老健に行きついでに母にも会いました。
母はやはり落ち込んでいて父の老健の荷物を持ち帰った時母の老健での写真を見たらベットにいる写真があり寝てる事が多かったです。

16日は父の納棺式でした。
親戚も母もいなくて兄と弟の3人でやりました。
おくりびとでも見たメイクをしたらいつもの寝てる父でしたし父が冷たく板みたいに固くなってました。棺には手紙と家族写真とベイスターズのユニフォームを入れました。
そして棺に入れた手紙にはこう書きました。

『お父さんへ
ありがとうそして87年間お疲れ様でした。
目標の100歳まで生きるのは達成できませんでしたが
去年の10月の心不全で回復したり
年末からずっと危篤状態で2週間生きていて
本当にがんばったしすごいよ。
永眠したお父さんの顔は笑っていてうれしそうだったのを見て
天国で空襲で亡くなって行方不明だった家族にやっと会えたのと
話し好きだから先に天国に行った仲の良い知り合いや
桂歌丸と昔の南区の話をしてるんだろうなという
うれしい顔してるのがよくわかったよ。
お父さんは同い年の桂歌丸が歩くのがやっとだった時杖なしで歩いていて
桂歌丸が寝たきりになった時杖をついて歩くようになったり
80歳過ぎてもいろんな事をやったり家族一緒に寄席や野球観戦や食事や買い物や
夢グループのコンサートや旅行に行ったりで
元気でいろんな事やいろんな所に行ったりでお父さんは死なないんじゃないかと思ったし自慢の父でした。
天国でやっと会えた家族や先に天国に行った知り合いと話をして楽しい一時をすごしてください。
娘より。』

そして17日葬儀の日父と最後の別れの日でした。
最初に老健に母を迎えに行き介護タクシーで葬儀場に向かう、久々に会う親戚もいて小学生ぶりの親戚も今就活中で大人になってました。
葬儀の時は半身麻痺の母が2年ぶりの外出で上手く介助できるかの緊張や父が冷たくなり骨になった悲しみもあって焼香の仕方を間違えたりする事とかあった。
棺に花を入れる時うれしい事も悲しいことも楽しかった事も許せない事も思い出してしまい涙が出てしまった。

そして介護タクシーの値段の事もあり母を兄の車に乗せて火葬場に向かう
母が久々の兄の車に乗るが葬儀で乗るというのが寂しく感じる…。
本当だったらドライブや大岡川のお花見で乗せて置きたかった。

そして火葬場に着き焼き上がりを待つ、
焼き上がりを待ってる時弟が親戚にコロナと認知症がなかったら付き合ってた人と同棲して結婚する予定だったと知り辛くなってしまった。
私も彼氏がいるが同棲どころか結婚する予定はないし父と母にはスマホで撮った顔を見せて話したがまだ兄と弟には顔も見せてなくて話してなくて反対される可能性もあるもんな…。

そして焼き上がり骨になった父を見る不思議なことに下顎の歯の部分は残っていて晩年の口を開けて寝てる父の歯が残ってました。
兄と弟は骨を持っていったが私は持っていかなかった。
おばあちゃんの時も持っていかなかったし骨を持ってると「父がもう骨でいないんだ…。」と辛くなるんだよね…。
そして葬儀が終わり母を老健に返し家に帰る家に帰ったら父の遺骨と仏壇が飾ってありました。
こんな形だけど父は2年ぶりに住み慣れた家に帰れてよかったなと感じました。

しかし認知症の父が亡くなり脳梗塞の母が老健に入ってからの葬儀は何をやっていいかわからない事ばかりでした。
喪主は兄で弟が写真を探したり親戚に電話して私はほとんどやってない…。
何をやっていいかわからず機嫌が悪くて怖くて報連相できなかった。
こんな状態で兄弟と上手くやっていけるか不安だったりします。