日本建国の虚構  (その1) 古墳ー古代

 

古代ロマンを信じている人は、未だいる。日本は神の国というデマを飛ばす実力者もいる。戦前、昭和ロマン死出へ旅立った学徒兵もかなりいたそうだ。徴兵に1冊だけ本を携帯することが許され万葉集を忍ばせる者が多かったそうだ。

その古代とは飛鳥、奈良時代だろう。

聞くがいい、何がロマンか、と。教科書で習った聖徳太子の17条の憲法、美しき丹色の社寺や金色に輝く仏像、恋歌う万葉歌人の長く尾を引く朗詠。だが見るがいい、豪族貴族の見栄を競う古墳、空に聳える天平寺社の甍、穴小屋から兵士徴用に駆り立てられた隷民たちの孤独な死、餓死を。自然崇拝、シャーマン、神社祭祀そして仏教念仏へと信仰は移っていったが、障害ついに救いはなかった。もし聞けるなら聞け、救いはどこにあったのか、と。ニザンがいれば言うだろう、古代ロマンだなどと、誰にも言わせない、と。

1 虚仮スター聖徳太子

日本史最大のスター聖徳太子は作り話だ。17条の憲法とか、彼の事績が全て否定されている。スターの本名は厩戸皇子だが、当て馬みたいなもので、実在者だったとしても、事績が否定されたのだから、厩戸の歴史意味は消えている。

17条の憲法・・・彼より後年のものと判明している。「和をもって尊しとなす」など、中国の論語その他典拠によって書いたもの。彼がいたとされる年譜より100年後の『日本書紀』の作品だろう。その作者は後に検討。

経典解釈書・・・ほぼ同じ内容の中国書が近年発見された。法隆寺僧侶など後代による、ほぼコピー作品。

斑鳩寺の造営・・・中国から新しい建築技術は、中国系秦氏や渡来人などが協力か。

天寿国繍帳・・・彼の妻が太子を偲んで作成したとされているだけで、他人でも作成できること。むろん彼に妻がいるはずがない、ともいえる。

官位12階の制定・・・実施された証拠はない。飛鳥浄御原令もずっと後年だから、太子とは関係ない

※以上、大山誠一編『聖徳太子の真実』、同『日本書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一は中部大学名誉教授、古代政治史)、などより。

古事記、日本書紀について根本的な問題点を指摘したのは、戦前戦後の戦争戦後の混乱のなかで研究を続けた大学者津田左右吉博士で、その研究は現在も古代史解釈の基本になっている。

そもそも天皇とか太子という表記は天武期のものとする説が有力。600年頃は天皇は大王と呼ばれ、皇太子は大兄と呼ばれた(例えば後継の中大兄)。

聖徳太子は虚仮(こけ)だった。(※虚仮は仏教用語だが、ここでは虚で仮という程度の意味で使う)。

日本書紀は3種の漢字文体で書かれている。

(『日本書紀の成立の真実―書き換えの主導者は誰か』2011年、森博達著)

α群(巻14~21、24~27・・・持統朝に、正音・正格漢文で書かれた。続守言、薩弘恪が撰述。

β群(巻1~13、22,23、28、29)・・・文武朝に、山田史御方が選述。和音、和化漢文。

巻30は・・・元明朝に紀朝臣清人が撰述し、同時に、三宅臣藤麻呂が全編に潤色を加えた。

撰述というのは、帝紀、旧辞などから720年までの中から、いいところを選んで、全体をまとまった文章にしたのだろう。何が〈いいところ〉かといえば、権力者の影響だ。書紀編纂を命じたのは天武天皇(672~686年)の皇子とされる。編纂には藤原不比等が関わったとする見方がある(上山春平著「埋もれた巨像」)。

なぜ、全体を同じ文体にしなかったのか、(たぶん)正格漢文を書く能力者が他にはいなかったか、または統一した潤色ができなかったからだろう。

さて、巻22(推古天皇の項)はβ群になる。文武朝時代に「撰述」された。和音、和化漢文だそうだ。

なぜ、事実を曲げてまで書紀より100年ほど前の大王(天皇)系の系譜を書き加えたのか。いうまでもない大王を偉大な人物とするためだが、それ以上の狙いがあった。天照大神の神話建国の次の〈人間建国〉がいかに偉大であったかを物語るためだ。

当時の民衆(渡来民と旧来の住民)には自然環境から来る職業的な分化があった。河川を軸に水稲耕作の農民、山谷で狩猟と得意とする山民、魚を取る他、交易に特化した海民などがいた。例えば騎馬の馬はそれまでの日本には存在せず、飼育のための草原を求めて群馬と呼ばれる地名に出て行ったような豪族。中国山中で木を伐採して製鉄を行った部族なども。古くから黒曜石を掘り出して交易する民など、それぞれの特産地では独特の仕事に従事していただろう。

地域権力からクニ統治への長い時間、弥生時代から古墳時代へと時代が変わった象徴は、古墳造成するほどの大人員を徴用する巨大な地域豪族の力と競合する相手がい古墳造成が豪族競合、支配と従属の拡大による政治を作り出したと考えるのが一般的だが、日本列島、例えばヤマト河内の場合、戦勝者によって豪族分布図が一変し、地域の名称まで変わってしまった、ヤマト権力者によって亡ばされた、という部氏族は少ないようだ。

日本列島の弥生時代には(韓朝中国などの出身の)渡来人が新しい環境に適応変化して暮らしていた。鳥瞰すると日本列島は地形が複雑で、縄文時代からの原住民は主として東北から関東に、あるいは渡来人との接触が少ない山地、海辺に片寄り、西日本の平地、川流域には渡来人が優勢になって、おそらく互いに出身地も異なり極めて多様でそれぞれ地域を分離して定着したのではないか。もともと小さな血縁集団から人数が増えるとともに部氏族に拡大、または結合し、上下支配へ階層分裂が進み、部氏族・豪族は拡大や結合で強大化した。

アイヌの民には自然崇拝があったことは今に残る詩謡にも見える。各地の石や山などの崇拝は、ヤマトの三輪山と、山中の巨石が神の磐座(いわくら)とされるなど、全山が信仰の対象とされる。※

職業的な分化もあり、河川を軸に水稲耕作の農民、山谷で狩猟と得意とする山民、魚を取る他、貿易船に特化した海民などがいて、交易しながらも、違う渡来民の場合は互いに)、騎馬の馬はそれまでの日本には存在せず、飼育のための草原を求めて、やがて群馬と呼ばれる地名に出て行ったような豪族。中国山中で木を伐採して製鉄を行った部族などもに、古くから黒曜石を掘り出して交易する民など。

地域権力創出かた豪族、クニ統治への長い時間、弥生時代から古墳時代へと時代が変わった象徴は、古墳造成するほどの大人員を徴用する巨大な地域豪族の力と、競合する相手がいるからこそだ。古墳造成が豪族競合、支配と従属の拡大による政治を作り出したと考えるのが一般的だが、日本列島、ヤマト河内の場合、戦勝者によって豪族分布図が一変し、地域の名称まで変わって消滅してしまった事例は少ないようだ。

ヤマトなど各地にはシャーマン巫女、巫覡がいて、古墳時代に最も強烈な古墳メーカーとなって全国に影響を及ぼし、首長、豪族の祖先崇拝へ影響が広がった。実力者の協働から指導支配者への規律従属あるいは他族との競合や支配関係が生じて、祖先崇拝が現れたのだろう。古墳時代には祖先という過去への時間拡大が起こって、部氏族の空間拡大への動因へと現実の古墳造成へと進んだ。むろん政治と宗教が混交しているが、未分離なまま地域拡大したと見られる。

3世紀半ば卑弥呼が巫女巫覡シャーマンとして特異な能力で広域の宗教的統一権威を発揮し豪族たちを精神的に統御(支配)した。その威力は偉大な力となって、中国の魏に朝貢した記録が魏志倭人伝として残っている。ただ卑弥呼死236年の後、トヨがあとを継いだが、兵力が造大する豪族たちを、巫女巫覡シャーマンでは抑えきれなくなったのだ。

3、4、5世紀に日本列島の歴史事実はほとんど不明だが、大混乱があった記述がなく不明なのが大混乱の証拠だ。この間に各地で古墳が造営されている。豪族が争う中で、北九州に本拠がある九州の大豪族がヤマトに移動して、日本列島西で有力になった動因、力の源泉は不明だが。九州筑紫は韓朝中国との交易が他の豪族にも強く影響しただろう。吉備は製鉄など、そしてヤマト河内は古墳造成が特長で強みだったのか。それが力の源泉なのか、よく分からない。出雲は宗教の神、神社で全国に広がり、ヤマトに対抗、影響力を持つに至ったことは確かだろう。ただどの部氏族も単独で全国制覇する力には足りなかったのだろう。磐井の反乱を抑えるなど兵隊を繰り出し武力で決着することもやったものの、非武力、宗教力、政治力によってヤマトのシャーマンが古墳造営で発揮した政治力、裏に武力で、出雲と妥結し棲み分けた、ということではないか。

それでも未だ最終解決にはならず、有力豪族、大王、大兄などの支配から〈天皇(大王)〉が誕生した。これは事実なのだ。とすると、ある豪族の系列か明確に記述していいはずだが、神から人間に至って天皇氏族が続いてきたか、または特異な出現があったか?津田左右吉は、「書紀」の記述は信用できないと結論している。