●もしかしたら、”欲しいものを手に入れる生活”というのは、そんなに楽しくないのかもしれない。
こんにちは!インナーマッスルの専門家、オゼッキーです。
今日のインナーマッスル活性化は、
「もしかしたら、”欲しいものを手に入れる生活”というのは、そんなに楽しくないのかもしれない。」
です。
「欲しいもの」って、手に入れても手に入れても、キリがないんですよね。
たしかに欲しかったバッグを買ったら、気持ちはワクワクするかもしれない。
行きたかったお洒落なレストランで食事をしたら、ハッピーな気持ちになるかもしれない。
夢だったスーパーカーをゲットしたら、ウキウキするかもしれない。
でも、そんな浮ついた気持ちって、ぜんぜん続かないじゃないですか。
ぼく、こういう気持ちって「幸せ」とは違うよなって思うんです。
ぼくの生活って、この10年で、めっちゃ変化してるんですよね。
ちょうど10年前の3月に就職し、家を出て、岐阜で一人暮らしを始めました。
その2年後には、三重県にいました。
その1年後には茨城にいました。
その1年後は千葉県にいて、その3年後に愛知に戻りました。
この10年で、いろいろなものを手に入れ、そしていろいろなものを失いました。
そこでわかったことは、何かを手に入れたり失ったりしても、「幸せ度」は変わらないということです。
ぼくは、常日頃から「本当に自分が欲しいものとはなんだろう」と自問しながら選択していくクセがあります。
すると、「本当に欲しいもの」は、だいたい手に入るんですね。
しかし、「本当に欲しかった」はずのそれが手に入っても、しばらくすると、「あれー、本当にこれが欲しかったんだっけ?」となってしまいます。
そしてまた自問を繰り返し、「本当に欲しいもの」を手に入れるように行動していく。
人によっては、「それこそが人生だ」と思うかもしれません。
欲しいモノが次々手に入るなんて、それでいいじゃないかと。
けれども、ぼくは「何か違うよなぁ」と思うわけです。
他人のことは分からない。
しかし自分のことをよーく振り返ってみると、何か表面の、浮ついた部分の「欲しいもの」を追いかけているような感じがするのです。
そして、こうしてブログを書きながら、じーーーっと考えてみますと、たぶん、ぼくが欲しいのは、
「何者でもないぼくが、ただの、僕として、ここにいてもいいんだ、という感じ」
なんだということに気がついてきました。
ぼくが、ぼくであることの価値。
ぼくが、ぼくであることの素晴らしさ。
それに比べたら、「欲しいものを手に入れる」ことなど、本当にちっぽけなことに過ぎない。
それよりも、「いま、ここにいる、ぼく」が「感じていること」のほうが、よっぽど価値があるのだ。
ぼくがどれだけ自分を嫌って、自己否定して辛くなっても、その気持ちには価値がある。
ぼくが、いろいろイヤになって、すべて投げ出したくなって、「死にたい」と思うときも、その気持ちがには価値がある。
正直にいって、ぼくはカッコつけマンなのです。
カッコイイ自分は好きだけど、カッコ悪い自分は好きじゃない。
成果を出してる自分は好きだけど、成果が出ない自分は好きじゃない。
弱みをさらけだすのは苦手。強がってしまう。
かなりプライドが高い。
そんなオゼッキーです。
そうか、そんなオゼッキーだからいいんですな。
こんな未熟で未完成なオゼッキーだからこそ、感じられることがある。
自己嫌悪も自己否定もある、プライドの高いオゼッキーだからこそ、発信できることがある。
ぜんぜんダメダメで、ヘボくて、ヘタレなオゼッキーだから、愛される。
っていうことは、ぼくは失敗してもいい。
うまくいかなくてもいい。
転んでもいい。
立ち止まってもいい。
後ろを振り返ってもいい。
そっか、失敗とか成功とかって、くっだらないことなんだ。
うまくいくとか、いかないとか、どうでもいいことなんだ。
大切なのは「いま、ここで、感じてること」だけ!
現状を変えようとするんじゃなくて、「いま、感じていること」にフォーカスして、それを受け入れればいいだけなんやね。
いやー、シンプルな結論に落ち着いてよかったwww
うーん、今回は完全にぼくの話になっちゃいました。
もし、皆様にもなにか気づきがありましたら幸いです。
何も気づきを得られなかった方は、こちらのメール講座を読んでいただくと、それなりに気づくことがあると思います(笑)