今回は「斗」宿についてお話します。

 

 

斗宿(としゅく)

 

 

~気難しいマニアックなカイチ(麒麟:キリン)~

 

キリンビールの表に描かれているような生き物。

 

気難しい性格。独特な雰囲気があり、本人の意識の中では「オンリーワン」であることが重要であり、かといって自分のことを理解して欲しいとは思わない。

 

真の理解者が数人いればそれで良しとする。本人にとって重要なのは、承認欲求ではない。本人自身の意識の中で特別意識があればそれで良い。敢えて理解して欲しいとは思わない。大勢ではなく、少数でも理解者がいれば満足。

 

愛情表現は苦手。人の心が理解出来ない。常識という言葉はこの人の中には無い。空気が読めない。それは人間関係にエネルギーを費やさないから。

 

人の事や金儲けには興味が無い。(金運が無いわけでは無い。)それよりは追求したいのは哲学、心理学、宗教、思想という分野。

 

冷静、クール。誰とでも仲良くなれない。嫌われても構わないと思っている。斗宿は人のことをまったく気にしない。(その真逆で、人のことを気にする宿は「氐宿と心宿」)

 

斗宿を真に理解する人は少数派。マニア向けの人。組織には向かない。こういう人が組織にいると、組織の運用はやりずらい。本人も組織にいることを好まない。それほどまでに特異意識が強い。

 

アーティスト(芸術家)や偉大なる宗教家や哲学者を夢見るが、その才能がある人ならば夢を叶えるために行動すると良いが、大概は夢で終わる。この世界で一流になるのはかなり大変。しかし、中にはすごい人物になる者もいる。

 

斗宿は世の中を変えるだけの力を持っている。幼少のころから霊能や直観のような人離れした隠された能力がある場合がある。その能力を見極めるには、家族以外の見る目を持つ人に引き立てられるかで決まる。名のある者に引き立てられた斗宿は常人ではない人物となれる。

 

現実面であらゆる人間関係を知る年頃になると、夢で終わってしまうのかという失望感にさいなまれる。このころに本人の心と体が分離してしまうので、どこかで妥協点が必要。精神が分裂してしまわないように注意。

 

カイチ(=麒麟)という生き物は本来は地上にはいない霊獣。カイチは船をも沈ませてしまうように、この人を本当に怒らせたら大変。しかし常人ではない特殊なパワーの持ち主。

 

ちなみに、霊獣(地球上には存在しない生き物)の宿は三つ。

 

①亢宿(龍) ②みづち(角宿) ③カイチ(斗宿)

 

霊獣は怒らせたら手が付けられないと言われているので、この三つの宿に当たる人と接する場合には、その人の怒りの沸点がどこまでなのかを見極めてから、親しく付き合うことをお勧めする。

 

 

二重丸斗宿に縁がある神社・仏閣・場所

 

麒麟は紀元前から中華人民共和国から伝わった伝説上の生き物です。慶事の前に現れるとされて、おめでたい印だと言い伝えられています。

 

国内の神社、仏閣の彫刻や装飾にも用いられています。

 

「キリンビール」のラベルにも用いられた「麒麟」です。ジャパン・ブルワリー・カンパニー(JBC)が、「キリンビール」と名付けたビールを発売したのは、1888(明治21)年のことだそうです。

 

【日光東照宮】

 

※麒麟の他にも見どころの彫刻がたくさんあります。

詳しくはこのサイトがお勧め!

日光東照宮・陽明門の彫刻の種類一覧!人物から動物まで | 日光東照宮-御朱印 (jinja-tera-gosyuin-meguri.com)

 

宝石赤陽明門

 

宝石ブルー拝殿

御杉戸(南側)に描かれた麒麟。(普段は引き戸が開けられているので、隠れて見えないそうです)

 

徳川家康は麒麟をこよなく信仰した人でした。なぜ家康公が麒麟を信仰していたのかを調べました。

 

「麒麟」は、四神をまとめる中央に位置している生き物です。

 

四神とは、四方位を守る東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武の四種類があります。そして、中央に君臨する麒麟を入れて、五霊と言います。

 

麒麟は、王が仁ある政治(いつきしみ深く、思いやりのある政治)を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされている点。

 

また、麒麟は歩くとき、草木の根も、その上を歩く虫さえも一匹も殺さず歩くことから、生き物の命を大切にする泰平の世の象徴だとされていた点。

 

これらの点から、家康の政治信念には欠かせない神の御使いだったのでしょう。

 

また、麒麟による信仰は以外にも「鳥取県」と関係があります。

 

麒麟の舞=獅子舞の起源を調べてみると、鳥取東照宮権現祭の御幸行列の獅子舞が浮かび上がって来ました。

 

全国に類を見ない面長な麒麟をモチーフにした獅子頭の麒麟獅子を創造したものです。

 

鳥取記念ルネッサンスより

 

初代鳥取藩主池田光仲公は、池田家が関ヶ原の戦いで豊臣方についたため、大名家としては外様大名であったのですが、徳川家康公の実の曾孫にあたり、更に家康の正室の10子で、徳川吉宗公の叔母にあたる徳川頼宜公の娘、茶々姫を正室に迎えています。

 

これらの徳川将軍家と非常に強いつながりにより池田光仲公は、正当な「葵御紋」を唯一徳川将軍家から下賜されています。

 

池田光仲公は池田家の中で唯一家康公より厚い寵愛をうけ、外様大名としては異例の51万石で鳥取を収めることになったのだそうです。

 

光仲公は、鳥取を治めるには麒麟信仰による「平和」と「太平」の祈りが欠かせないとして、日光東照宮の分院である鳥取東照宮を建立たのです。

 

また日光東照宮の金の頭を持つ獅子と祖父の麒麟信仰にならい、鳥取東照宮権現祭の御幸行列の獅子として、全国に類を見ない面長な麒麟をモチーフにした獅子頭の麒麟獅子を創造し、これを使用したのだそうです。

 

赤い胴体、金色の頭に一本の金色角が織りなす平和の舞は、因幡地方に数百カ所、但馬地方に數十箇所と広く根付くこととなっただと言います。

 

こうして日光と鳥取が五霊獣を司る「麒麟」の姿によって、今でも日本列島の五方位を守っているのかも知れません。

 

麒麟獅子舞も特徴は、このサイトをご覧ください。

因幡・但馬の麒麟獅子舞のご紹介|鳥取市 (tottori.lg.jp)

 

 

さて、『ほつまつたゑ』によると、鳥取県あたりは、ハタレが集まって蜂起した場所でもあります。しかしその後、ソサノオ尊が皇室から離れて一人の民として村の姫を娶り、村を一から築き上げて行きました。

 

特に村が豊かになったのは、次の代であるソサノオの子・ヲホナムチ命(大国主)の世でした。しかし、あまりにも豊かになり過ぎた為、ヲホナムチは中央政府に妬まれて、村を明け渡すことになってしまいました。

 

歴史はいつでも統治に成功しても、必ずいつかまた国や地位、金品、命を奪われたりします。その繰り返しです。

 

でも変わらないのは人に芽生えた「意思」です。どのような思いでその行為をしたのか。その行為や意思はたとえどんな場所に追いやられたとしても、変わるものではありません。

 

縄文時代の部族文化→渡来系が交じり合った弥生文化の発祥→豪族、王と巫女による男女のいさかい、そんな争いが常だった古墳時代→中央政権と九州政権の覇権争い→神武東征によりヤマト王国誕生(ここから天皇は神から人になった)→平家、武家、南北朝など数々の時代を経て家康が治めた江戸時代へ入り天下泰平の国になり、鎖国により独特な日本伝統が生まれた→大政奉還により西洋文明を憧れる国となる明治維新を経て経済は急成長→世界から警戒される国となり、ついに太平洋戦争勃発→日本は敗戦を経て、米軍の基地を配置、原子力発電を各地に作らされ、アメリカの属国となる。そして現在も続く。。。

 

日本の政治も堕落し、真の日本人魂が消えかけているのが現状だと思います。

 

しかし私は、長い歴史を振り返ってみても、どの時代にも「神の国」だった時代は無いように思います。私が定義する「神の国」とは、誰の支配も受けない自由な意思を持ち、それぞれの能力を互いが認め合い、協力し合い、忖度の無い社会です。

 

自然の気を感じ取る者たちで織りなす生活です。そんな時代を「神の国」と名付けたいのです。

 

縄文時代が神と共に生活していたのでしょうか?縄文時代初期ならまだしも、後期には『ほつまつたゑ』によるところ、支配する者と支配されるものに分かれ、明らかに身分の差がありました。そんな時代は私にとっては「神の国」でもなければ「神のおわします選ばれた国」でもありません。

 

この列島には、もっともっと縄文前の姿があったはずです。まだ今の列島の形が形成される前かもしれません。人間たちが文明を築く前かもしれません。

 

大地に祈り、山々に住むすべての生き物たちと会話ができて、自然の流れを損なうことなく、互いの心を傷つけることなく自由意思により生きることが出来た場所。

 

今の国は世界中どこをみても「仮の住い」です。「嘘の国」、「嘘で固めた関係」。そんな虚像の世界の中に生きている人間たちの一人が今の私でもある。。。

 

こうして書いているブログも、本音では書けない部分があるのも事実。

 

でも今はそれが現実なんですよね。嘘の政治。忖度の社会。本音で付き合えない関係なんて、何が楽しいのだろうと。。。気を遣い、忖度して良いところだけを取るなんて、そんなの本当の実力じゃない。

 

でも皮肉なことに、そんな偽の社会だからこそ、「人」の価値が重要なんだ、正直になれることが本当の人としての道なんだと気が付くものなのでしょう。大災害や艱難辛苦を受けた時、真の人の温かさや優しさに触れて、人間は本当の「人」となる。

 

 

「人」という字に「間:マ」が入ると文明に余分なものが入る「人間」になるんですね。「人間」ではなく、私はいつでも「人」であり続けたい、そう意識して生きたいと思います。

 

斗宿はそんなことを教えてくれる宿なんです。人間社会に馴染めない斗宿さんだけど、これからこの世の中にとって、とても貴重な人なのだと思います。