【秦氏のルーツ】

 

 

 

秦氏はユダヤ人景教徒であったという「佐伯好郎」博士の説を私も取り入れて論文を書いたことがあります。

 

秦氏のルーツは中央アジアの「弓月」という国です。佐伯好郎博士の説によれば、弓月国はとても小さな国だったのですが、早くからキリスト教国になったそうです。

 

中国の皇帝たちは各部族を奴隷のように扱い、あの万里の長城を築かせていったのですが、あまりの重労働に耐えかねて、多くの者たちが朝鮮半島や日本に逃げて来たそうです。

 

朝鮮半島に逃げた秦氏たちを助けたのが日本の天皇だったと言います。

 

日本に入って間もなく、渡来人たちは人種差別や階級差別などされ、迫害や搾取などの悲痛な目に遭いながらも、秦氏たちは、彼らの技術や頭脳を日本のために貢献したと言います。未開拓地であった山背の盆地を高度な技術によって開拓して行きました。

 

そして京都周辺に土着し、氏神であった稲荷神を祀り、寺の建築にも、力と知恵を貸したようです。

 

 

しかし桓武天皇の時、平安遷都に伴い、せっかく秦氏たちが開拓した土地を没収され、藤原一族や他の貴族たちから疎んじられました。それだけ彼らの能力が高かったので目障りだったのでしょう。秦氏たちは失脚し、要の者たちもかなり抹殺されたようです。

 

それでも秦氏たちは歯向かうことなく忍辱しました。

 

こうして殺された秦氏たちは、宮中や市内に祟りや災いを起こしたと言われました。

 

皇室や宮中で祟りが降りかかり、奇妙な死に方をしたようです。天皇やその周辺に祟りが行くのを恐れて、都では秦氏の御霊鎮めである「御霊会(ごりょうえ)」を始めました。

 

 

これを見ていた民衆たちは、自分たちにも降りかかる災いから身を護るために、「御霊会」を秦氏の祖霊祭として「稲荷祭」に代替えをしたのだそうです。秦氏の氏神が「稲荷神」だったからです。

 

伏見稲荷大社の「稲荷祭」は、実は宮中を秦氏の祟りから守るための「御霊会」が元だったのです。

 

 

【秦氏と空海の繋がり→空海の密教=ネストリウス派?】

 

 

秦氏は空海とも非常に縁が深かったようです。秦氏と空海の繋がりは、大変興味深い繋がりがあります。

 

空海が長安で学んだ時、梵字(サンスクリット)に精通していたインド人の僧・般若三蔵は空海の師でもあり、空海に様々な影響をもたらした人物でもあります。

 

般若三蔵はネストリウス派(中国では景教という。古代キリスト教の一派)の僧と交流していたので、ネストリウス派(景教)と空海の繋がりはここからだったと、私は見ています。


 

 

【ネストリウス派(景教)とは】

 

ネストリウスという人が、431年のエフェソス公会議で異端とされた後、ネストリウス派というキリスト教一派を形成し、エジプト・シリアを経て東方のササン朝を経て中国にまで伝わり、景教といわれました。

 

ウキペディアより↓

 

なぜネストリウスが異端とされたのでしょうか。

 

簡単に言えば、聖母マリアを「神の母」とは呼ばず、「キリストの母」と呼ぶことにしたのです。

 

つまり、マリアは神ではなく人間であり、処女で子が出来たのではなく、一人の女性としてキリストをもうけたので、出来た子・イエスキリストも神の子ではなく、私たちと同じ人間なんだよ、ということを主張したのです。

 

人性と神性は区別されるべきであると。キリストはその両方が共立出来ていた人間だったのだという主張でした。

 

私もこのネストリウス側の意見です。イエスキリストが十字架にかかった際、神の子であったなら、絶命しなくても雷がなにかが落ちて、イエスは命を失わなかったはずで、三日目に蘇って弟子たちの前に姿を現した、という現象も、49日までの間の霊体を見た弟子たちの幻だと考えています。

 

さて、ネストリウスは異端としてエジプトに追放されました。その後、彼の一派は東方へ広がり、イランを中心に栄えペルシャを経由して中国大陸へ伝わり、「景教」と名付けられたのです。

 

宋代以降は中国の景教は衰えましたが、中央アジアを中心に存続し、現在もイラクや南インドにわずかだが残存しています。

 

 

さて、高野山の奥の院にもネストリウス派(景教)の記念碑があります。私は当初、この記念碑に引っ張られてしまいました。なぜこの記念碑が気になるのだろう?

 

そして調べていく内に、もしかしたら空海は「日本人のための独自のキリスト教」を、この高野山に空海独自の真言宗の中に混ぜたのかもしれないと。。。

 

真言宗の表向きは密教ですが、核の部分は「景教」なのかもしれません。

 

 

空海の時代のかなり前から秦氏は日本に入っています。この時にはまだ景教が日本に受け入れられたとは思いません。

 

飛鳥時代には蘇我氏が仏教を推進派でしたので、一神を神とするキリスト教的な教えは、多仏を拝む仏教派には到底受け入れられなかったはずです。

 

平安時代に入ってからも、上記で書いたように秦氏の耐え忍ぶ時代がありました。

 

そして空海の活躍する時代に入ります。

 

 

 

【空海の密教は景教も入る?】

 

あくまでも、本当にあくまでも詩論ですが、空海が日本に景教を隠して真言密教の中に取り入れたのだと見ています。

 

その理由を挙げてみます。

 

真魚(まお=幼き頃の空海の名)は幼いころから奇跡を体験しています。その体験を彼は日本に伝来した仏教の中に答えを求めたのですが、どんな高僧も真魚の問いに答えてはくれませんでした。

 

ウキペディアより↓

 

大学に行ってエリート官僚の道に入るべく、空海は一族の期待を一心に背負い、勉学に励もうとしますが、あくびが出る毎日。。。あ~つまらない授業だこと。

 

真魚はついに抜け出して、大安寺の坊さんから山岳修行を進められました。この修行は宇宙神との交信をするという「虚空蔵求聞持法(こくぞうぼさつぐもんじほう)」で、奈良時代の役小角(役行者)も行っていた、過酷な修行でした。

 

これが今の山岳修行の始まりと言われています。宇宙空間と自分とが一体となるような命がけの修行です。

 

これはまさに空海が後に開いた宇宙神・大日如来との一体化を体現するもので、ただ学んで習得するものではなかったのです。

 

この若いころの過酷な虚空蔵求聞持法を習得する修行において、「空海」と自ら名付けた、あの奇跡体験(金星が口の中に入る)を、高知県室戸岬の洞窟で体験したのです。

 

室戸市HPより↓

 

 

 

この体験で、彼は唐へ行くことを決意したと、私は思います。だから空海が乗った船が嵐に遭い、遭難しても命は絶対に助かるはずだ、ということを知っていたのでしょう。星と一体になった空海です。その理由を本人が知るまでは命の保証があると知っていたと思います。

 

空海は唐へ行き、世界中の高僧たちから世界の学問、世界中の宗教を驚異的なスピードで交流しながら吸収して行きました。

 

一番重要だと思っていた「梵字(サンスクリット語)」を学ぶために、長安の大秦寺というお寺にいる僧に会いに入ります。

 

大秦寺には様々な異国の僧が学んでいました。中でも空海に大きな影響力を与えた僧に、インド人の般若三蔵という梵字の達人と、もう一人、ペルシャ人である僧・景浄(本名は「アダム」)がいました。

 

般若三蔵がソグド語版(イラン諸国語)で書かれていた『六波羅蜜多経』を翻訳する際、ペルシャ人であった景浄に協力を仰いでいます。

 

唐の人にも読めるように漢訳する為ですが、不備があったため、後に般若三蔵は『六波羅蜜多経』の梵字(サンスクリット語)版から漢訳したのです。

 

空海は、この漢訳した般若三蔵の『六波羅蜜多経』の原本から書写した経典名が『御請来目録』に載っています。『大乗理趣六波羅蜜多経』(だいじょうりしゅろくはらみつきょう)=略して『六波羅蜜多経』)といいます。

 

この経典は十巻から構成されています。大乗の行について六度の行(六種の行)を修することが悟りへの菩薩道のあるべき姿だと説いています。

 

 

さて、この般若三蔵と交流のあった僧・景浄は、ネストリウス派のキリスト教が伝播されていたことを長安にある石碑に残しています。この石碑は現在、西安市の碑林博物館に安置されています。(大秦景教流行碑)

 

 

そしてそのレプリカが明治時代、『弘法大師と景教の関係』を著したイギリス人のE・A・ゴルドン夫人によって高野山奥之院に建てられているその石碑なのだそうです。そう、私が引っ張られたあの奥の院の記念碑です。

 

高野山奥の院にある景教のレプリカ

 

そして約三か月間、ほぼ毎日通い詰めて学んだ各宗派の経典や学問を習得した空海に、ようやくすべての準備は整ったと、般若三蔵から空海はある僧を紹介されます。

 

般若三蔵は空海の天才・鬼才ぶりにかなり驚いたに違いありません。また付け加えて、室戸岬での奇跡体験も空海は般若に話していたことでしょう。

 

 

般若が合わせたい僧とは「恵果(けいか)」という長安(今の西安市)の青龍寺という、長安では一番の高僧であったのです。(ということは世界一の僧)

 

ウキペディアより↓恵果

 

現在の西安市・青龍寺にて『空海真言密教八祖誕生』の像

恵果阿闍梨から空海に密教の奥義を授けている

 

恵果和上という人は、すごいことに気が付いた方なのです。その理由は、恵果の密教とは「金胎不二(こんたいふに)」といい、善無畏と一行が訳した『大日経』だけではなく、金剛智と不空が訳した『金剛頂経』とともに、金剛頂経と胎蔵経の両部は二つでありながら一体である、とする総合的密教を確立したからです。

 

両方の違いについては専門的ですが簡単に言えば、慈悲の心を母親に喩えて子を慈しむ心で書かれた胎蔵の経典類と、悟りへの道筋を描いた金剛の経典類の双方二つで密教という意味です。昼間の太陽と夜の月のような関係です。どちらも宇宙界に存在していますので二つで一つだという意味なのです。

 

恵果の前までは別々に捉えられていた経典類を、恵果は二種を集約して独自の密教の世界を確立したのです。

 

これを異国の人・天才空海に託したのです。

 

両部の大法を恵果一人から伝授してもらえるいい時期であるぞ、と般若は空海に紹介します。もちろんこの時点ですでに般若は恵果に空海という者を紹介していることでしょう。

 

しかし、恵果の健康状態からして残された時間に余裕がないことをつけ加えたのです。

 

後幾ばくも無い命をわずかに残した密教高僧・恵果という師匠が、跡継ぎになる異国の空海を待っていたのに、先に般若三蔵や他の景教に精通している僧に会いに行っているのです。

 

本来ならすぐに密教界のトップである恵果阿闍梨に会うべきなのに。

 

それはまるで恵果も空海も、互いに結び合う糸があるかのように、まだ少し時間があるのを知っていたのでしょうか。

 

空海が以前から聞いていた景教の話を、般若三蔵の居る寺で直接ネストリウスの僧から聞く事が出来きたのです。

 

ここにおいて、密教とは全く異なる異国のキリスト教思想が、景教となれば話は違う。この景教ならば密教と同じ共通点があることを再認識したのでしょう。

 

イエス・キリストが人ならば、密教の根本思想である「即身成仏(そくしんじょうぶつ」という考え方と一致するのです。

 

即身成仏とは、そのままの姿で死を表す意味ではありません。

 

誰でも生きながら、生活をしながらその場、その瞬間に悟ることが出来る悟りの境地を言います。即身成仏は真言密教の根本思想です。

 

長い年月をかけて何度も何度も生まれ変わってきても、仏にもなれず悟りを開けない他の仏教類とは異なる、真言密教だけの考え方です。

 

もしもイエスが神の子ならば、そもそも「悟りを開くこと」などしなくても良いとなります。

 

学問はすべて習得した空海。あとは恵果に会って灌頂を受け、作法や修法を習い、経典・道具類を手渡されるだけ。そして密教真言付法の跡継ぎ、八代目と認める儀式を行うだけでした。

 

 

こうして帰国した空海は、密教という名の隠れ蓑として、秦氏と連携して日本人に景教と、縄文人の大切にしていた古代神道の方位神との融合を、日本の神社の中に融合して根付かせたかったのかもしれません。

 

縄文時代から大切にしていた自然神、特に重要な鬼門方位の神、ウツロヰ。

 

そこに秦氏の祖霊・稲荷神を民衆の間で拝むようになった。

また空海が唐で出会った景教も、彼が仏教と古代自然信仰の神の融合する日本に密かに入れたとしたら。。。

 

日本には、古代自然信仰と、仏教と、密教、そして景教(キリストは人である)という世界で重要な宗教が存在している。

 

もしも秦氏が日本において他の氏族たちが弾圧されて殺されて一族の名が消え去っていたとしたら、今の日本の純粋な信仰という精神は消えていたと思います。

 

秦氏は他の渡来人とは違い、精神的に強く純粋な信仰心と忍辱を持っていたので、忌部氏や物部氏、蘇我氏とは違い、神社の神主や技術人として生き残ることに成功したのだと思います。

 

 

飛鳥時代には帝や聖徳太子を助け、太子から譲り受けた大切な仏像の寺を次々に建てたり、平安時代では空海と密接に繋がり、土着の民衆たちとも溶け込んで古代日本人のDNAと混ざり合い、民衆に受け入れられながら、空海に託した景教を裏に隠し、表には「稲荷神」として見事に生き残ったと考えます。

 

そしてもしも空海が唐へ行かなければ、当然ながら景教は日本には根付いていないでしょう。

 

少なくとも私たちが知っているキリスト教は、イエスは神の子として崇める存在になっているからです。

 

しかし、空海はイエスは神ではない、イエスは人間であったと、ネストリウス派のキリスト教を学んでいたかもしれません。

 

それは大尊敬していた般若三蔵と親しく交流していた僧・景浄が景教徒だったからです。異国の学僧に学ぶ空海と、権威や権力のある僧の元で学んだ最澄との差が、その後の空海と最澄の人生に、大きく隔たりを付けてしまうことになったのです。

 

 

 

【空海が唐であった老人とは、稲荷神だった?】

 

 

 

空海が密教道場としてもらい受けた東寺(教王護国寺)。その隅に五重塔を建てる意味も秦氏の稲荷神に関係します。

 

五重塔の用材を稲荷山から切り出す際、空海ははじめ何も気にせず木を伐採しました。ところが祟りが起こり、工事が進みません。

 

 

東寺に伝わっている『稲荷大明神流記』に、次のような伝説が残されています。

 

弘仁7年(816)、空海は、紀州(今の和歌山県)田辺で稲荷神の化身である異形の老人に出会っています。この老人は空海に再会できたことを喜んでこう言いました。

 

「自分は祟り神ではない。本物の神である。空海、あなたには威徳がある。あなたの修行は、自分だけの悟りだけではなく、他の者にも悟りに到達させようと努める者となったからには、私の教えを受ける気はないか」

 

つまり、自分だけの悟りではなく、すべての者を救う小乗大乗の教えを広めてはくれないだろうか、と言ったのです。

 

空海はこう答えました。

 

「唐の霊山においてあなたを拝んでお会いしたときに交わした約束を、私は決して忘れることはありませんでした。

 

生きる姿、生きる国はちがっていても目指すものは同じです。

 

私には密教を日本に伝え、それを大きく花を開かさせたい、という願いがあります。

 

そこでどうでしょう。あなたさまには神として仏法の擁護をお願い申し上げたいのです。

 

京の九条に東寺という寺があります。私はここで国を守護する密教の道場のための寺を興すつもりです。

 

どうぞいらしてください。私はあなたを東寺でお待ちしております。」

 

823年1月19日、東寺を嵯峨天皇に許されて道場寺とした空海でしたが、その年の4月13日、東寺の南門に、紀州であったあの老人が婦人2人と子供2人を伴ってやって来ました。

 

空海はたいそう喜ばれ、最高のおもてなしをして、東寺の五重塔の用材に、稲荷山の木を定め、17日間の祈りを捧げたというのです。稲荷山に秦氏の祖霊「稲荷神」を鎮座頂いたのです。

 

どうも空海が以前、唐の霊山でお会いした神が稲荷神だったようです。

 

その稲荷山こそ現在の伏見稲荷の山です。


つまり、秦氏の私社でしかなかった稲荷社を、東寺との結びつきを強めることにより、その結果として真言宗とのつながりが強まったことは当然です。

 

 

明治初期の廃仏毀釈の前までは、真言宗の寺院「荼吉尼天(だきにてん)法を修する東寺の末寺である真言寺院愛染寺」がありました。

 

これは神仏習合の下に真言宗東寺の末寺の愛染寺が神宮寺として建立されたためです。

 

秦氏の稲荷社では仏教系の稲荷として荼枳尼天も礼拝され、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理していたようです。

 

東寺では、真言密教における荼枳尼に稲荷神を習合させ、悪鬼を荼吉尼天として迎え、真言宗の全国への布教とともに、荼吉尼天の概念も含んだ稲荷信仰が全国に広まりました。

 

 

伏見稲荷大社はここにおいて仏教系の稲荷として荼枳尼天(だきにてん)として空海に取り入れられたことを意味しています。

 

秦氏と稲荷神、秦氏と景教、そして日本において空海の密教の完成。

 

 

それらを複合すると、稲荷神・景教(キリスト教の一派)・真言密教は同じ路線の教えなのかもしれないと思うのです。

 

 

稲荷を粗末にすれば祟る。食の神であるが故、またユダヤ人のある一族が日本人のルーツでもあるならば、祖先神を大切にしない者に祟るのか。。。

 

そういう土着から始まった祟る怖い稲荷神を、古代自然神の田の神として融合した伏見稲荷大社の「正一稲荷神」として祀り、東寺の五重塔の魔を祓う修行・真言密教で高野山、あるいは東寺、あるいは日本中の真言宗のお寺で、日本国の五穀豊穣を祈っているのかもしれません。

 

やはり空海はただ者ではありませぬな~。

 

 

今回は「尾宿」についてでした。尾宿さんはそれだけ方位神のように、強い神様が関わりたく思っているというのですから、普通の生活をしたい尾宿さんには少し荷が重いかも知れません。でも空海のお寺はとても心が休まります。高野山奥の院や、東寺の中の仏で構成された曼荼羅の世界配置をみるだけでも、悩みが吹っ切れると思います。

 

是非一度、東寺や高野山を訪れてみてください。

 

 

 

私から

 

今年は自然災害や人の心が狂う年でもありますが、逆に言えば古い価値観が崩れ、新しく生まれ変わる準備の年です。

 

新年元旦と二日に立て続けに災害が起きてしまいましたが、世界中を見ても元旦から災害が起きた国は日本以外にはありません。

 

ということは、日本と言う国は天の神からまだ見捨てられていないという意味でもあります。

 

人にとって災害は非常に辛く厳しいものであり、心の傷にもなります。でも地球から見れば地球の中のバランスが崩れたために、そのバランスを平衡している動きにすぎず、私たちで言えば病を治していることになります。

 

私は出来るだけ多くの方たちに、この地球も私たちと同じように生きていることを知ってもらいたいのです。

 

ジブリの映画に出て来るような自然にも意志があるのです。パワーストーンも同じ。人も同じ。エネルギー活動も人と同じように起伏があります。エネルギーは人間と交流出来ます。でも私たちの方から、そんなことあるはずがないと一喝しているのです。

 

その一方で、決して破滅思想に陥ることはいけません。恐怖心を仰いではいけません。日々の生活が続いていることに感謝して、地球のために、人間だけではなく、すべての生き物たちのために祈って下さい。祈りとはそういうものだと思います。

 

自分の先祖や自分の家族だけのためではなく、すべての生き物たち、地球のために・・・それが大乗の心です。

 

 

犠牲者も加害者もありません。命は同じです。やったらやり返す、という考えも、被害妄想も、人の中にある邪気の波動に侵されてやっているのです。それはそれで学びなのですが、もうそろそろ一段階段を上がらなくてはと思うのですよ。

 

人の感情は自分の中でコントロール出来ます。コントロールすることが毎日の中の修行なのです。私もです。

 

悲しみはずっとは続きません。でもラッキーな時も長くは続きません。移り行くのです。だからこそ、その場に立ち止まるのではなく、時間と共に未来へ向かう心が重要だと思います。

 

一緒に成長して行きましょう!

 

先生など要りません。目指す人も無くていい。

 

理想ではなく、現実を見て逃げずに受け入れて生きるのです。それでも明日は必ず来るから。