私は、縁とは向こうからやって来るものではなく、
自ら歩いた先で結ばれていくものだと思っています。
また、「縁がある」「縁がない」と、
自分で決められるものでもないように思うのです。
当時の私は、世俗の中で生きることに疲れ果てていました。
全てを捨ててしまいたい。
俗世を離れて生きられたらどんなに楽だろう。
そんな思いを、一人の天台宗の尼僧に打ち明けました。
すると、その方は静かにこう言われたのです。
「あなたは尼僧にはなれません。」
私は驚きました。
そして、その方は続けて尋ねられました。
「それよりも、あなたの密教の種はどこにありますか。」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なことに、私の心には空海と高野山の姿が浮かびました。
私はその日のうちに高野山へ向かいました。
大学は日曜日で閉まっていました。
私は、「縁がなかったのだろう」と思い、帰ろうとしました。
その時、一人の修行中の僧侶が声をかけてくださったのです。
そのご縁によって、私は後に高野山で密教を学ぶ機会をいただきました。
しかし、振り返れば、縁とは思い通りに進むことばかりではありません。
卒業は一年遅れました。
そのため、卒論の指導教授は定年退職され、
担当教授が変わることになりました。
卒論のテーマも変更となり、
私は『宿曜経』について研究することになったのです。
当時の私にとって、卒論のテーマが変わることは大きな出来事でした。
あと一年で卒業したいと考えていた私には、
それまで積み重ねてきたものを一から見直さなければならないように感じられ、
「卒業はもう無理かもしれない」と悩んでいました。
けれど、そのことが後になって大きな意味を持つことになりました。
何とか卒業することはできましたが、
宿曜経の研究をその後に生かすこともなく、
私は再び日常の暮らしの中へ戻っていきました。
そして月日は流れ、五年ほど経った頃のことでした。
ある日、自宅の本棚が不自然に揺れ、目の前に一冊の本が落ちてきました。
それは卒論の参考文献として使用した「羽田守快先生」の研究書でした。
しかも、本は開いた状態で落ち、そのページには羽田先生のお寺の連絡先が記されていたのです。
私は迷いました。
けれど、勇気を出して電話をかけました。
電話口の先生はとても厳格な印象で、
その受け答えに思わず緊張し、泣きそうになったことを今でも覚えています。
私の生年月日を言う事になり、先生から宿曜の星のご縁をいただき、
先生のお弟子さんから密教占星術の実技を学ぶ機会を得ることができました。
もし卒業が遅れていなかったなら。
もし指導教授が変わらなかったなら。
もし宿曜経を研究していなかったなら。
もし本を拾っても電話をしなかったなら。
今の私はいなかったでしょう。
縁とは、向こうから与えられるものではありません。
また、自ら有る無しを決めるものでもありません。
思いがけない出来事の中に蒔かれていた種が、
自ら一歩を踏み出した時、
静かに芽吹いていくものなのかもしれません。
あの日、尼僧からいただいた
「あなたの密教の種はどこにありますか」
という問いは、
答えを探すためのものではなく、
歩み続けるための問いだったのだと、今は感じています。
人は、自分の中に蒔かれている種を見ることはできません。
けれど、勇気を出して一歩を踏み出した時、
思いもよらなかった形で芽吹くことがあるのかもしれません。
だからこそ、自分で縁の有る無しを決めてしまわず、
時には小さな勇気を出して歩いてみること。
その先に、自分でもまだ知らない可能性が待っているのかもしれないと、
私は思うのです。