第五福竜丸 被爆事件とは



第五福竜丸とは

 第五福竜丸は 1954 年 3 月 1 日、

マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった

水爆実験により被ばくした

静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。

爆心地より 160 キロ東方の海上で操業中、

突如西に閃光を見、地鳴りのような爆発音が

船をおそいました。

やがて、

実験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が

第五福竜丸に降りそそぎ、

乗組員 23 人は全員被ばくしました。
 その後、第五福竜丸は放射能がへるのを待って

東京水産大学(現・東京海洋大学)の学生の

航海の練習船「はやぶさ丸」となりました。


漁船の被ばく

 被害を受けたのは、

第五福竜丸だけではありません。

日本各地から多くの船が出漁し被害を受けました。

54 年末までに 856 隻が放射能に

汚染されたマグロを水揚げしています。

多くの乗組員が被ばくした可能性がありますが、

健康被害など不明な点が多いのです。


  ​背景

1954年。朝鮮戦争が終わり、

米ソ対立は最大限の警戒にあった。

互いに原爆を保有し、いつでも国民を全滅できる

それだけの戦力拡大期に、

原爆を超える兵器開発に米ソ欧は躍起だった。

そんな中、新理論により製造された水爆

アメリカ信託統治領

マーシャル諸島で実験したのだった。



当時は200海里などない。

日本国は敗戦により国土が荒廃、

タンパク質に飢えており、

合法的に漁業をしていたに過ぎない。

しかしアメリカは公知を怠った。

第五福竜丸は「危険地域の外」にいた。



つまりアメリカは水爆の威力を分かってなかった

結果、日本人は3度目の被爆をうけた


  被害状況

船に乗った人だけではない。



また雨水の計測により全国各地で強い放射性雨

降っていることが分かった。

5月には京都で1リットルあたり8万6000カウント、

東京でも3万2000カウントの

放射性雨が計測された[注釈 4]

8月8日には

原水爆禁止署名運動全国協議会が結成された[6]


当然乗組員はこうなった


乗組員らは目も口も開けられないほどの

降灰に見舞われ、

危険を察知して海域からの脱出を図ったが、

延縄の収容に時間がかかり、

約4 - 5時間、放射性降下物の降灰を

全身に被り続けながら作業を行うこととなり、

23名の全員が被爆した。

また船体・捕獲した魚類も同様に被爆した[注釈 1]。


その後の帰港までの2週間、

乗組員は船体や人体も十分に洗浄しないまま

強い放射能汚染のある状態の船上で生活をし、

火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、

脱毛など放射線による急性放射線症状を呈した。


このうち、

被爆後わずか半年で久保山愛吉さんが亡くなった。



このことが我が国に原水禁を生み、

放射能の怖さを身近なものと考えることになった


  二次災害

このビキニ環礁水爆実験により

さらなる厄災が日本を襲う。

国会議事堂も破壊された


電車も食われた


今でも日本人は脅威に晒されている。


は?

ネタじゃないんだよ、これが。

第五福竜丸事件をきっかけに、

放射能・放射線の恐怖を伝えるために

ゴジラは制作された。

マジで。


これを止めたのが戦争中に兵器開発を

させられた芹沢博士

人を、生き物を殺す兵器を

人を助けるために使おう。

初代ゴジラには

そんなメッセージが込められている。


  まとめ

私は原発に反対ではない。

コントローラブルな範囲において、

平和利用を「必要悪」として許容する。

しかしなくせるなら無くしたいものだ

子どもたちがこの記事を読んで、

少しでも危険性があるものと認識し、

未来に違うエネルギーを開発してくれることを

願ってやまない。


くそっ!

私の科学力ではこのゴジラには勝てないッッ!




©️お受験のお医者さん