フビライ、また攻めるってよ
文永の役は
中国側の史書にはボロカスな被害と書いてある。
日本側は把握していないことから、
本気でなぜ来ないのか謎だったのだろう。
ちなみに寺社はずうずうしくも、
俺らの祈祷で退けタンダワとかいって
借金帳消しや免税を求めている。
しかし、この時に元は南宋を下す。
残るは日本だけである。
大宋國牒状として日本側に手渡された
牒状の内容は「宋朝(南宋)は
すでに蒙古に討ち取られ、
(次は)日本も危うい。
よって宋朝(南宋)自ら
日本に(元に服属するよう)告知」する
内容であった[252]。
それでも2回目攻めるのに降伏勧告をする。
今度こそ「うっざ」とばかりに
執権・北条時宗は使者を切り捨てた。
2回もね?
また、フビライも頑なであった。
だいたいこう言う時にプライドを優先すると
しくじることが多い。
結果的に亡国への道が始まった。
史上最大の作戦
元・高麗軍を主力とした
東路軍約40,000~56,989人・
軍船900艘と
旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人
および江南軍水夫(人数不詳)・
軍船3,500艘、
3軍の合計、約140,000~156,989人
および江南軍水夫(人数不詳)・
軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。
日本へ派遣された艦隊は
史上例をみない
世界史上最大規模の艦隊であった[48]。
なお、『元史』阿剌罕伝によると、
モンゴル人を主力とした
蒙古軍約400,000人が動員されたとしている[32]。
この艦隊だけで水戸市の二倍の人口になる。
弘安の役
そんなわけで
今度はガチで多重防護策により
撃退した。
その上、台風が来ちゃった。
先に述べた通り、密集していると
あっという間に船同士がぶつかってくだける。
7月30日夜半、台風が襲来し、
元軍の軍船の多くが沈没、
損壊するなどして大損害を被った。
東路軍が日本を目指して出航してから約3か月、
博多湾に侵入して戦闘が始まってから
約2か月後のことであった。
なお、北九州に上陸する台風は
平年3.2回ほどであり、約3か月もの間、
海上に停滞していた元軍にとっては、
偶発的な台風ではなかった。
この結果、
元軍のうち帰還できた兵士は、『元史』の中でも、全軍の1〜4割と格差が見受けられる。元軍140,000〜156,989人のうちの1〜4割とした場合、帰還者の数はおよそ14,000〜62,796人。また、『高麗史』によると、高麗兵および東路軍水夫の帰還者は26,989人のうち、19,397人。
23以上が失われ、残った軍船も、
相当数が破損された。
戦後について
こうして2度の大敗北に関わらず、
フビライは3度目を計画したが、
さすがに周りが止めた。
これまでも止めてたんだけどなぁ。
こうしてモンゴルは
東へ領土拡大することはできず、
また、ベトナム侵攻も失敗して、
拡大がとまった。海軍力がほぼゼロとなった。
一方、日本では北条時宗GJと
レペゼン風味が高まるYeah!となったが幕府の基盤である御家人体制の崩壊を
強制的に堰き止めようとするものであった。
だが、御家人の凋落は、元寇時の負担だけではなく、
惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化、
そして貨幣経済の進展に翻弄された結果であり、
そうした大きな流れを止めることは出来なかった。
こうして
長年の分割相続による所有地の小型化や
軍務の負担、朝廷の分裂、
没落御家人の悪党化などがあって、
幕府が悪いのは北条家によるものという
考えが持ち上がってくる。
結果、本来は源氏ど真ん中のはずの
新田義貞、足利尊氏らが挙兵するに至る。
割れて砕けて、
裂けて散るかも。