平安時代前期。

それは貴族の時代であり、

武士とは単に家の衛士を指した。

しかし時代は動く。

なぜ貴族社会から

武家社会へと変革していったのか。

それを追いかける


  武士とは

鎌倉武士は世界史的には重装弓騎兵となる

世界的にも稀な兵科である。


1 弓騎兵はいたが軽装であることが多い。

これは馬の負担と速度の問題で、

歩兵に対して騎兵の役割は付かず離れずであった


ユーラシア大陸で強大な存在である騎兵

ほぼこれである。

羊を統制するには馬が必須であった。

だが初期には鞍とあぶみがなく刀がふれなかった

これを後の世では軽騎兵とよぶ。


2 鞍とあぶみ

次に重要なのは鞍とあぶみである。

モンゴルをはじめとする騎馬民族は

鞍なしで裸馬に乗っていたが

それゆえ横からの力に弱く、

刀や槍で戦うと横からの力に弱い。

しかし鞍とあぶみがあれば安定する。

こうして弓騎兵は騎兵へと進化した


3 重装騎兵

馬によって歩く距離が減ったので、

重装騎兵という兵科が生まれる。

東ローマではカタフラクトという。

馬にも鎧を被せ、

機動力はないが重い鎧でも動けるので、

歩兵は歯が立たなかった

この時代はまだファランクス、横列陣

歩兵のきほんなので、

突撃されたら陣が崩れて弱点ができる。

ここを広げられると混乱と恐慌で軍は崩壊する


4 日本刀の誕生

それまでの刀は中国式の直刀だった。

はい、ここで坂上田村麻呂〜

※本当はそれより前にもいたのだが



延暦10年1月18日791年2月25日)に

兵士の動員について具体化すると、

坂上田村麻呂は百済王俊哲と共に

東海道諸国へと派遣され、

兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、

征討軍の兵力は10万人ほどであった[原 7][24][25]


この征伐の重要な点は坂上田村麻呂
百済王俊哲がいることだ。
百済民は騎馬に乗り、
弓を操る遊牧騎馬民族である。
そしてこの征討により、あるものを得る。
土蜘蛛が使っていた蕨手刀である。

まっすぐな刃だが持ち手に角度がつけてある。

その辺はいろいろと工夫されてる。角度とか。

というわけで薙ぎ払うことができる刀であった

それまでの中国・朝鮮式は突くの基本なのだ

それだと馬の上からは狙いにくい。

そこで薙ぎ払え!となる。

騎馬の上から薙ぎ払われると、

歩兵は上からは無防備なので何もできない。

そういうわけで朝廷軍は苦労した。

これを取り入れたわけだ。

こうして曲刀が新羅の製鉄と騎馬術

組み合わさった。


  武士の誕生

こうして一騎に太刀持ち歩兵を組み合わせた

ユニットとして鎌倉武士は生まれた。


そこに三匹ポケモンがいるじゃろ?

薙刀持ってる歩兵がいるじゃろ?

そういうわけでこんな感じにバトルする

一族の頭領が貴重な鎧と馬に乗り弓をうち、

馬を太刀歩兵が守るというユニットができた。

この構成が最小単位だ。


  ​室町時代

室町時代と鎌倉時代の構造的変化はなにか。



それは馬の数だ。

室町幕府は馬の増産に努めて保護をした。

こうして一騎に

一族や家来が付き従うスタイルから、

騎馬軍団が生まれる。

本来は同一兵科、同一武装にしたほうが、

速度も無駄がないし、強い。

こうして室町時代に集団戦術が確立した。

室町時代後期。

各豪族にまで十分に

騎馬と日本刀が行き渡ったとき、

戦争は自然に互いに軍団同士となった。

大抵は水争い農地争いや、

仲間や友人や家族を殺されたなのだが、

室町幕府の力があったときには調停できていた

ところが。

室町幕府自体が忙しくなった。

将軍の跡目争いで

有力御家人がバトルしたからだ。

室町幕府滅亡のきっかけとなったのは、1467(応仁元)年に起きた「応仁(おうにん)の乱」です。8代将軍足利義政の後継者争いが発端となり、全国の守護大名が二手(ふたて)に分かれて争いました。

守護大名の家督相続争いや主導権争いなど、さまざまな要因が絡み合ったことで争いは11年も続き、京都は焼け野原となってしまったのです。

応仁の乱によって、将軍の権限が失われたことや、守護代や国人の勢力が強まったことで、守護大名の領地が守護代や国人に奪われるなど「下剋上(げこくじょう)」が始まりました。下剋上もまた、室町時代を滅亡へと向かわせる原因だったと考えられています。


こうして
何かやっても幕府が手を出しきれない地方では、
こうなる


焼肉定食 弱肉強食の時代である。
これが戦国時代の始まりであった。