大政奉還とは何か? #維新の嵐 | 鈴木篠千のゲームと釣りと少年時代の話。

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ルール
①高額ソフトはやらない
②攻略本などは見ない。
③地元(浜松)で釣る。
④少年時代(無所属)の話。
(詳細はプロフィールで)



龍馬が目指す大政奉還。(結果として達成するのだが…)

この龍馬は考えをどこで知り得て、いつ頃から目指したのか?

そもそも『幕府が政権を朝廷に返上する』という"大政奉還"の考えは芸州藩あたりから出た"尊王攘夷"思想の一部として考え出された。

龍馬の師匠、勝麟太郎(海舟)などは割りと早くから知っていたようだ。


だが、麟太郎の『大政奉還』論は「腑抜けの幕府などは政権を返上し、いっその事、一大名に落ちてしまえば良い」という乱暴な"幕府矯正論"に近かった。

何故、龍馬はこの案を受け入れたのか?

これには龍馬の出自が関わってくる。


坂本龍馬の四代前は土佐藩郊外(長岡郡才谷村)に住む百姓だった。
それが高知(城下)に移住し、小さな質屋を初め、曾祖父の時に"郷士株"(侍の資格)を得て、土佐藩下士(下級藩士)になった。

また、龍馬の親戚には迴船運送業をしている人物(下田屋)がいて、長崎などと高知を周回していた。
そこから海外の情報が得られた。
龍馬は子供の頃からその屋敷に出入りして、僅かではあるが、海外の情報を得ていたようだ。



ちなみに、龍馬とジョン万次郎は土佐にいる間に会っていて、彼からも海外の情報を得ていたはず。

江戸で初めて会ったわけではないはずだ。

この頃、坂本家は高知城下で呉服屋や両替商を営んでいて、そこそこ繁盛していた。
龍馬はその次男である。
つまり、龍馬は金持ちの"ボンボン"¥だったのだ。
そして龍馬の感覚は武士というよりは、商人に近い。

土佐藩では上士と郷士(下士)の身分差が激しい。

だが、そんな上士も威張りながら、龍馬の実家(才谷屋)に借金をしてくる。

龍馬は、これをどう見ていたか?

「上士、上士」と威張ったところで、金が足りないなら、下の者に金を借りにくる。

江戸時代とは、そんな社会なのだ。

幕末当時、武家社会は行き詰まり、藩の上役でも武士は生活が逼迫していた。
龍馬は幕藩体制や武家社会の限界が見えていたのではないか?

破綻仕掛けている武士の統制機構に変わる新な"価値観"は何か?

当然、"金お金"である。
海外を含め、国内は既に"貨幣経済"が浸透している。

龍馬が見据えていたのは、"経済立国""経済戦争"の出現ではないか?

……実際、そうなったが。

だから、龍馬は商人としての"未来"に"希望"を見たのか?

商売をする上での障害は、日本では"身分差"であり、幕藩体制だ。。

身分などは商売には邪魔で仕方ないだろう。
何故なら、身分が違うだけで販売が出来なかったり、売買の制限がある。

そんな"不平等"があるのでは"商売"は出来ない。
出来ないのであれば、"儲ける"事が出来ない。

商売の目的は"利益"(儲ける事)だ。

利益お札が上げられないのでは、商売をする理由は無い。

皆が平等ではないのなら、儲けても誰も幸せになれない。

誰もが商売して、誰もが儲ける社会ではないと、意味が無い。
(今で言う社会主義思想に近い)

だから、大政奉還なのだ。

龍馬は商人として、大政奉還を望んだのではないか?

ちなみに史実の龍馬が活躍した時期は短い。

文久3年(1863年)頃、勝麟太郎に付いて、神戸海軍塾を立ち上げ、すぐに瓦解。
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元治元年(1864年)あたりに、薩摩藩に接近。
慶応元年(1865年)には、薩摩藩の後ろ楯で、長崎で商売(亀山社中)ウインクを開始。
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慶応2年~3年(1866~67年)、薩長同盟の締結に尽力。
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慶応3年11月15日、殺害ナイフ


龍馬が活躍したのは、正味5年弱しかない。

※なのでこのゲームの時点(1859年)では、龍馬は土佐にいるはず。

勝に"弟子入り"したのは文久2年(1862年)の夏過ぎ。龍馬2度目の江戸(脱藩)の時。

二人は初対面ではない。
先の江戸留学の際に、佐久間象山の塾に通っていた。象山の妻は勝の妹だ。
二人には面識があったのだ。


また、いきなり会いに行ったのでない。
土佐藩の同僚、近藤長次郎(饅頭屋)の紹介で会っている。

商売の意識の高い龍馬は、海外との交易手段として、渡航経験(咸臨丸)船があり、軍艦や大砲の知識があった。海外の新知識を仕入れたかったのだ。

同じ頃、土佐藩では幼なじみの武市半平太土佐勤王党を立ち上げて、土佐藩を"尊王藩"とすべく、藩内闘争に明け暮れていた。


ここが龍馬と違う。

龍馬は"商人目線"だから、早くから藩の体制云々に興味が無い。
何故なら、尊王でも攘夷でも『世の中は変わらない』と分かって思っていたからだ。
商売の為には、幕府、藩という機構は足枷でしかない。

対して、半平太は藩と幕府という枠に囚われ、土佐藩(山内容堂)を"尊皇攘夷"に染める事で『世の中が変わる』と信じていた。 

それが行く行くは"悲劇"に繋がるのだが…。

龍馬は勝と出会い、そこで『大政奉還』という政治的行動を知り、これならば自分の目指す"商売"がやりやすいと思惑の内に入れて置いたに違いない。

自由に商売して儲けたい。
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規制を緩和したい。
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それには今の幕府では駄目。それに変わる政治機構が必要。
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つまり、『雄藩連合』だ。
そこに商売の"匂い"がするから、尚良し。
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雄藩の合議制の統治機構(おそらく旧幕勢力も含む)
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それには、現行の幕府は邪魔。
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幕府を潰したい。だが、諸外国の手を借りた幕府倒壊は危険。
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大政奉還なら、国外からの干渉を最小限にできる(経済的にも)

勝と出会う前から、幕府に頼らない商売を模索し、

勝から"大政奉還"案を聞いて、薩長連合への奔走の中で具体的な方法として挙げたのではないか?