水切りが上手でも下手でも、お金持ちでも貧乏でも、健康でも病気でも「人は等しく尊い」という理想は捨てられません。

それは、多くの犠牲を払って人類が到達した理想であり、信仰でもあります。人権も命も完全に守られているとは言えませんが、人間の智慧がたどり着いた根本的な思想の一つだと思うのです。

現代医学で、どんなに頑張って命を長らえても、最後は生き物の真理には歯が立たないことを何度も見てきました。負けると分かっている命の戦いを、何のためにしているのか考えました。

私は、遊ぶためにコロナ禍に五回の手術を受けて生きながらえました。そして今でも水切りを楽しむことができています。以前のようにはできなくても、それなりに楽しむ方法はあります。散歩がてら河川敷を歩いて、うひょひょ石を拾ったり、こうして水切りについて考えたり、思いを発信したり、若い人の素晴らしい水切りを見るのも楽しいことです。大病を生き延び、生きていることは、それだけで奇跡的なことだと感じるようになりました。

人間は、体験と言葉によって変わります。人権という言葉も、命という言葉も想像上の言葉で、その本質は良くわかりません。家族葬とか、墓じまいという言葉でも死のイメージは変わります。

我が家の猫はかなりの老猫ですが、猫じゃらしで遊びます。私も肩の腱鞘炎が良くなり、今は神経痛ですが、猫と同じに石を投げて遊びます。猫が猫を生きるように、私は人間を生きてまいりましょう。うひょひょな発見は、まだまだ少しは続きそうです。