私たちは、知らないことが多いまま、嘘の多い競争社会に生きています。集団の中で生まれ育った思想や共感が勝利を求めて他の人や国に向かうとき、偏見や差別が生まれ、争いになるのかも知れません。戦時中の日本には滅私奉公という正義がありました。言葉と情報が幻想を作り、人々を動かすのが現実の社会です。

水切りは、自然の原理に人が合わせることでしか調和はありません。その調和を美しいと感じる感性が人間には確かにあります。人間社会は、矛盾と間違いが多いですが、美しいという言葉は大きな意味を持ち、それが調和という理想に繋がる気がします。

結局、水切りも行き着く先は美だと思います。海外の水切りファンも同じようなことを言っています。自然と遊びながら、少しづつ自然との調和を美しく感じるのかも知れません。妙な言い方かも知れませんが、人の意識も自然から目覚めたものだからです。

人は昔から、自然に対して思考を巡らせてきました。キリスト教では、人間に自然の支配者としての地位を与えましたが、同時に私たちを生かすための「神の恵」であり、契約でもあります。仏教では、人を導く「法」としての意味を教えています。いわば、自然は神であり、また、私たちが従うべき法でもあるわけです。遥か昔から、私たちが最も知るべきは、自然そのものだということです。自然とは、人工的ではないもの全てです。

単純に見える、水切り現象ですが、それは自然が私たち人類に見せてくれる教訓の一つなのかも知れません。

人間も自然の一部だとすれば、「誰もが、等しく尊い」という信仰に行き着きます。そうでなければ、倫理も福祉も法律も、根拠が怪しくなり、社会の平和を維持することは難しくなるでしょう。それは、人類の理想であり、希望の光だと思います。

水切りという自然現象は、私たちにできることとできないことを教えてくれます。水切り遊びは平和活動です。おほほ 続く・・