土曜日。
明け方までの勤務だ。
今日の衣装は、赤と黒のストライプが斜めに入った、すごくステキなドレス。
七部袖。胸が開いているので、ママはペンダントを貸してくれた。ウィッグは、最近お気に入りのショート。
私は、銀のトレーを見つけたので、
ママにちょっと曲芸を見せた。
「ほら、ママ。ナナ上手でしょう。」
そういいながら、銀盆の上に水の入ったコップを乗せて、
それを自由自在に動かした。
コップの水は一滴もこぼさない。
「ナナ、喫茶店のウエイトレスの仕事は、本当だったの?」とママ。
「喫茶店じゃないです。キャバレーのボーイです。」と私。
「キャバレー?どこの?」とママは少し驚き顔。
「歌舞伎町の、恵○観光ビルの二階です。すごく広いところ でした。」
「ああ、あそこね。あそこでボーイしていたの?」
「3ヶ月やりました。ホステスさん。毎日50人くらいいま したよ。」
「でしょうね。」
「知らなかったわ。ナナは、何でもやったのね。」
「夜の世界を知りたかったんです。」
「で、どうだった?」
「お店が終わったとき、毎日3人ぐらいのホステスさんが泣 いてました。」
「私の六本木時代と同じだわ。毎日誰かが泣いていた。」
「それを、黒服のマネージャさんが、慰めていました。」
「それも同じだわ。」
「ママも泣いた?」
「そりゃね。ショーの踊りの練習が厳しかったし、
ヘルパーさん、やらせてくれなかったり。」
「あ、わかります。ヘルパーさんて、人気のホステスさんの 応援隊ですよね。」
「そう。その人に嫌われると、もう付けてもらえなかっ た。」
「そういうとき、どうしたんですか。」
「お店に早く行くの。ご指名のないお客さんが来たときは、
早く来た順で、お客さんに付けてもらえたから。」
「ああ、だから2時間も早く来ていたホステスさんがいたん ですね。」
「どこも同じだと思うけど。」
*
「ナナは、どうしてそこを辞めたの?」
「だって、1日6時間毎日働いて、月給は2万円ちょっとだ ったんですよ。」
「それは、あんまりね。ホステスさんの方がいいと思っ た?」
「いいえ。給料が安くてもボーイの方が気楽だと思いました。ホステスさんは、大変です。」
「ナナ、今そのホステスさんなのよ。」ママが笑いながら言った。
そうかあ…っと思って、不思議な感慨があった。
いつの間にか、私は、ゴールデン街のホステスだった。
そのことを、はっきり意識したことがなかった。
「女」として、男性客の気を惹く立場にいる。
まだ、ピンと来ないなあと思った。
*
お店の看板に火を点すために、ドアの外に出た。
そのとき、私を呼ぶ声を聞いた。
「ナナさん。」
女性の可愛い声。
驚いて振り向くと、小野さんが立っていた。
びっくりした。
「小野さん!どうしてここに?」
「ナナさんともう一度お話がしたくて。」
「お店で?」
「ううん。ナナさんの時間が空いているとき、ゆっくり と。」
「でも、こんな時間に、女の子が一人でここにいては、ダメ です。今、ゴールデン街の外まで、送ります。」
私はママに事情を話して、小野さんを、大通りまで送ることにした。
私は、小道の酔っぱらいや、立ちん坊の女性(?)から小野さんを守りながら歩いた。
「どうしてナナと?」そう聞いた。
「私、自分がわからなくなったの。ナナさんとお話すれば、 はっきりする気がして。」
小野さんは、そう言った。
小野さんは、早稲田のアパートに来て欲しいという。
私は、喫茶店が月曜日は休みということにして、
月曜日の昼の2時に、高田馬場駅で待ち合わせることにした。
約束の月曜日。
小野さんと約束したものの、さて困った。
私は、家族と暮らしている。家から女装で出るわけに行かなかった。それに、外出用の女物がない。
バッグ、靴。
しかたがないので、いつもの詩を売っている格好で行くことにした。黒いとっくりのセーター。上着はコールテンのロングコート。(元々女物だ。)
下着だけは、女物を身に付けて行った。
胸に詰め物を入れる。髪は1本に結ぶ。すだれの前髪、ピンクの口紅を薄く引く。
一応、これで女の子に見えるかなと思った。
(ほんとは、スカートにしたかったけど妥協した。)
イメージ(ボーイッシュ?)
駅で、小野さんは私を見るなり、
「わ!ナナさんの素顔もステキだわ。ちょっとボーイッシュ かな?」と、言ってくれた。
「ボーイッシュだなんて言われたの初めてだから、なんだか うれしい。」私は、本心で言った。
(小野さんは、賢そうで、女の子女の子したタイプ。)
小野さんのアパートは、4畳半で、真ん中に小さなコタツがあった。回りは、本棚で、本がたくさんある。
小野さんは、あの日のママと同じことを言った。
敬語を使わないで。私のことを「久美」って呼んで。
だから、私も言った。ナナって呼んでって。
*
「ナナ、コーヒーを淹れるわ。」
そう言って小野さんは、半畳ほどの台所に立った。
「久美。本を見せてもらっていい?」
「どうぞ。」
難しそうな本ばかり並んでいた。
コーヒーを淹れてもらい、コタツに小野さんと向かい合って座った。
「久美は、これらの本、全部読んだの?」と私。
「まさか。飾っているだけ。」と小野さん。(でも、読んでるんだろうなと思った。)
「ナナが、久美のお役に立つの?」と聞いた。
「あたし、こうしてナナといっしょにいたかっただけかも知れない。」
小野さんはそう言う。
「どういうこと?」私は聞いた。
「ナナが、『水子』って知っていたでしょう。
あのときから、ナナに惹かれてしまった。
女同士なのに、ナナにちょっと恋をしてしまった。」
(どうしよう…と私は思った。私が可愛いと思っている人に、すごいこと言われてしまった。)
「隣に行ってもいい?」と小野さん。
「え、ええ。もちろん。」私。(ほんとに、どうしよう…。)
小野さんは、小さなコタツの私の隣に来て、私にもたれた。
小野さんの髪のリンスのいい匂いがした。
「女の子にこんな感情持ったの初めて。」
「……。」
「女の子同士だからかな。こんなに素直になれるの。」
「お店に立ってるナナは、すごく素敵だった。
でも、こうして素顔でいるナナもすごく素敵。」
私は、可愛い小野さんを抱きしめたくなったけれど、それを懸命に我慢していた。
小野さんは、目をつぶっているみたいだった。
小野さんの柔らかそうな唇。キスをしたくなる。
*
そのうち、小野さんは、パチッと目をあけて身を立て直した。
「ごめんね、ナナ。ナナにちょっと甘えたかったの。」
「ううん。うれしかった。」と私は正直に言った。
「コーヒのお替わりいれるね。」
小野さんは立って、コーヒーをもって、今度は私の正面に座った。
*
私は、小野さんの本棚から、1冊の詩集を抜いた。
「見ていい?」と私。
「金子光晴、好きなの?」私の取り出した本を見て、小野さんが言った。
「一番好き。久美の本棚にあったからうれしかった。」
「そう。ナナは不思議少女だから、もう驚かない。」
私は、本を開き、詩の一節を、口に出して読んだ。
『忘れろ。忘れろ。人間のすることなど
忘れればきれいなものだ。蚤虱ものこらない。
おおかたのことは、大小となく
世界が忘れてきたように。』
「あたしは、辛いことがあると、この言葉を唱えて、忘れて きたの。」私は言った。
小野さんは、じっと私を見つめていた。
「ナナは、開いたページの詩じゃなくて、ナナが大好きな詩 を、本を読むようにして、あたしに聞かせてくれたの ね。」
「バレちゃった?」と、私。
「今のフレーズを聞いて、あたし、ずっとこだわって来たこ とを吹っ切れそうな気がする。ありがとう、ナナ。」
*
高田馬場駅で、小野さんと別れた。
駅の改札は込んでいた。
人並みに見えなくなる小野さんへ、私は大きく手を振った。
<おわり>
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