倉田洋子建築課構造審査員(2話完結)前編
茶畑が一面に広がる一帯の歩道を、
倉田洋子は、出勤の足を運んでいた。
紺のスカート、紺の丈の短い上着。少女のようなおかっぱの髪。
ぱっと見ると高校生のようだ。
やがて、洋子は、二階建ての古い市役所に来た。
すると、その朝は、役所の玄関前で、
茶畑を営む人々50名ほどが、シュプレヒコールをやっている。
「高層ビル建設、はんたーい!」
「はんたーい!」
と、くり返し声を上げている。
「ねえねえ、高層ビルって、それなんのこと?」
洋子は聞いた。
「あそこの広い土地に、27階建てのビルが出来るらしいんですよ。」
「そんなビルができてしまったら、茶畑は、終わりだ。
風が変わり、霜が降りて、葉っぱは全滅だよ。」
洋子は、ふーんと考えた。
『あそこの更地に、27階のビルねえ・・・・。』
やがて洋子は、
「ねえ、皆さん。ここに27階のビルなんて、無理。
あたしが、保証する。あたしが建てさせません。」
と洋子は、大声で言った。
「あなたに、そんなことできるんですか。」
「はい、あたしは、『建築課構造審査員』ですからね。
あたしが、ハンコウを押さなければ、誰もビル建てられません!」
洋子は、自慢気に胸を叩いた。
「ほんとですか。お願いします。私等の畑を守ってください。」
みんなは、洋子に寄りすがって行った。
「はい。まっかせてちょーだい!」
と、洋子は、Vサインを決めた。
その日、午後の2時ごろ、一人のキリリとした40歳代の背広の男と、
その後ろに、背を丸めてついて回っている、やや品に欠ける50歳代の男が、
市役所開発課に入って行った。
開発課の課長は、満面の笑みで男を迎えた。
「これは、これは、日本一の建築家、田村幸三先生。
どうぞ、中のソファーへ。」
奥の間のソファーで、田村幸三は言った。
「日本一なんて、止めてください。
日本には、私などより優れた方は大勢いる。
ただ、田村と言ってくださればいいです。」
課長の安村は、隣の殖産興業の植木一郎には、目もくれなかった。
「あの、日本一の巨大タワーを設計なさった田村先生が、
わが市のような郊外に、ビルを建ててくださるとは、全くの驚きでした。」
課長は、手をもみながら言った。
「それは、都心ばかりではなく、郊外の発展にも興味が生まれましてね。
1つの高層ビルで、街がどのように活性化していくか。
そんなことを、見たいと思っているんですよ。」
田村幸三は言った。
全く相手にされない殖産興業の植木は、心の中で、ぶーたれていた。
『なんでえ。えらそうに。
田村の50億の借金をうちが、埋め合わせてやろってんだ。
うちが声かけてやんなきゃ、あんたは、ドボンだぜ。
俺の紹介くらいしろい。』
市役所の開発課にとっては、高層ビルが市にできることは、
夢のような話なのである。
しかも、設計が、田村幸三となれば、それだけで、宣伝効果抜群である。
だが、その隣にある「環境課」の感情は、正反対である。
開発課は、お金を使う立場で、常に羽振りが良く、オフィスも広く、職員も多い。
「環境課」は、自然を守る立場で、小さなオフィスで、3人ほどで、細々やっている。
田村と植木は、次は「環境課」に回って来る。
環境課トップの藤崎は、高層ビルから、茶畑を守る立場だ。
思ったより早く、幸三と植木が来た。
藤崎は、茶畑の件を質問したが、
ビルによる風の影響とされる図面を見せられ、
扇風機を各畑に10台増設することで解決すると言われた。
その費用は、施工主である殖産興業が全額負担すると言う。
藤崎ほか2名の職員は、図面もよくわからず、
最後は、承諾してしまった。
残るは、いよいよ建築課である。
建築課意匠(デザイン)、設計、最後に構造(力学)であった。
設計課には、設計図が、前もって送られていた。
しかし、設計家の職員は、高層ビルなど初めてであり、
図面を完全には読めなかったのである。
田村が来る前の日、
「参ったな。俺たちでは、ミスを探せない。
設計ミスがあった場合、俺たちの責任だ。
責任を取らされるのはいいが、これが、人命に関わったりすると、
取り返しがつかない。」
「ああ、自分にもっと力があったらな。」
と皆で悔しい思いをしたのであった。
だが、一人が言った。
「まだ、倉田さんがいる。
彼女なら、俺たちの見逃したミスも見つけてくれる。」
「そうだな。彼女なら、構造だけでなく、設計も見てくれる。」
「彼女は、俺たちの守護神だからな。」
こんなことで、設計課の皆は、洋子にすべてを託し、
田村の設計を通したのであった。
「あと、1つだな。」と田村は植木に言った。
「もう終わったも同然ですね。
こんな市の役所に、高層ビルの構造がわかる人間がいるはずありませんもんねえ。」
と植木は、手を擦りながら言った。
田村は、「構造審査」とほんの小さな木の札のあるドアを叩いた。
「はい、どうぞ。」
と若い女性の声だ。
田村と植木は中に入った。
『なんだ、小娘じゃないか。初任者か。それとも助手か?』
そして、こうも思った。
『ここにも、前もって設計図を送るべきだったか。
ここで、審査のために、1週間預かるなどと言われちゃたまらない。』
「あの、ここをお一人で?」田村は聞いてみた。
「はい。あたし一人でやっています。2人も人件費割けませんものね。」と洋子。
洋子のデスクの隣と前に、同じデスクを4つ合わせて、広いデスクにしている。
田村は、洋子の前、植木は、洋子から見て、田村の左に立った。
「田村幸三です。」
と田村は、名刺を渡した。
(小娘でも、礼儀は踏まねばならない。)
洋子も立って名刺を渡した。
植木は渡さなかった。
一同は座った。
田村は、大きな製図用紙、80枚からなる設計図を渡した。
洋子は受け取って、下唇を出して、ふーと前髪を飛ばした。
洋子が設計図を広げ、それを見て、すぐギプアップすることを、田村は確信していた。
ところが、洋子は、その大きな紙を、パッパ、パッパとめくって行った。
そして、最終ページをめくり終るのに20秒もかからなかった。
「構造計算を記したCDをお持ちですか。」と洋子は言った。
田村は、持っていた。
だが、まさか、これまで提出させられるとは、思っていなかった。
(つまり、これを見てわかる人間がいるとは思わなかった。)
洋子は、CDを受け取ると、PCにかけ、
何千行とある計算画面を、すごいスピードで、スクロールアップして行った。
これに、20秒。
洋子は、CDを返した。
「もう、いいんですか。」と田村は思わず言った。
「はい、拝見しました。」と洋子は言って、田村を見て、にこっとした。
(『にこ』の意味がわからんと、田村は思った。)
「あの、この設計図は、田村幸三建築事務所がなさったもので、
どこか三流の下請けにやらせたものでは、ありませんよね。」と、洋子。
「何を言うんです!そんなところに頼むわけがないでしょう。」
田村は、憤慨した。
「では、些末なことから先に言います。
設計図の方ですが、126か所、数字の間違いがあります。」洋子は言った。
「何を!」と田村は叫んだ。
「あなたは、設計図を、ろくに見てはいなかったじゃないか。」
田村は、ついかっとなって語気を強くした。
「それは、田村さんより、見るのが速かったという意味ですか。」と洋子。
「そうだが。信じられない。どこにミスがあるのか、聞きたいものだ。」
田村はかなり立腹の体であった。
「では、分かりやすいミスから言います。
5枚めの設計図は、1階の平面図ですね。
客が来る第1玄関の方形の柱です。右の柱の幅は、1090mmで妥当と思えますが、
対になるはずの左の柱は、0090mmとなっていませんか。」
田村は、試しにページをめくった。
そして、「あ。」と声を上げた。
確かに、左は、0090mmとなっている。
千の単位の1の書き違いである。柱の幅が、わずか9cmである。
田村は、顔から火の出る思いであった。
「奇抜な設計をなさる田村さんです。左右の柱の幅の違いを、
面白いと、そのまま信じて、他の階の設計をなさったスタッフと、
0090を千の位のイージーミスとして、0を1に変えた方とがいて、
それが、126か所のミスを生んだ原因です。」と、洋子言った。
(後編につづく)
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