人探し名人・柳原恵子MtF④「再び、山へ」(2話完結)

<前半>

8月も終わりに近づき、涼しい日も増えて来た。
恵子の父啓太は、児童文学作家だった。
パソコン1台で仕事ができる。
自分の大きな机は、物置になっていて、小さなスペースにパソコンを置いて、仕事をしている。

恵子は、座っている父の後ろから、父の首を抱きしめた。
「恵子、やめてくれよ。今、考えているんだから。
 アイデアが、飛んで行きそうだったよ。」
「お父さんのアイデアが枯れたら、家はどうなるの?」
と、恵子。
「お仕舞だよ。」
「わあ、危なかった。」と恵子は、啓太から離れた。

母の美佐江は、出掛ける用意をしている。
美佐江は、ずっとコーラスをやって来ていて、
公民館のコーラス部の講師をしている。
恵子に似て、美人で、若く見え40歳代のなかばであったが、30歳代に見えた。

恵子の女性ホルモン投与は、声変りに間に合った。
そして、恵子の少年の声が少女の声に聞こえるよう、
ボイストレーニングしてくれたのは、母の美佐江だった。
おかげで、恵子の声は、誰が聞いても女性の声である。
そして、母譲りの美しい声で歌える。

時刻は、午前の9時になろうとしていた。
「恵子、早く支度をして。間に合わなくなるわよ。」
美佐江は、言った。
今日は、歌舞伎のチケットが2枚手に入り、
美佐江と恵子で行くことになっていた。

「お母さん、あたし、行かない。」恵子は言った。
「どうして?あれほど行きたがっていたじゃない。」
「うん。訳はよくわからないんだけど、
 今日は、家にいた方がいいような気がするの。」
「そう。」
美佐江は、恵子の不思議な力かなと思った。
「いいわよ。なら、お父さんと行くから。」
ということになり、夫婦でうれしそうに出かけて行った。

「9時か。」と恵子は時計を見た。
涼しい日であったが、体は汗をかいていた。
恵子は、シャワーを浴びることにした。

シャワーから出て、体を軽く拭いて、
バスタオルを体に巻いた。
胸が、大きくなって来たので、
女の子巻が出来るようになった。

恵子は、自分の部屋に行って、姿見で自分を見た。
そっとバスタオルを取って、裸の自分を映してみた。
小、中学とあれほど運動をしてきたのに、
肩幅は女の子並に狭く、肩から二の腕へのラインも、
細く、女の子のものだった。
ピップに脂肪が付いたので、ウエストの位置が上がり、
おへその5cm上あたりにくびれが出来ている。
白くて、真っ直ぐな長い脚。
恵子は、自分の女の子のような体つきを、
つくづく、幸運に思った。

ただ一つ、股間に余分な物がある。
『こいつを、どうにかしなきゃなんねーな。』
恵子は、あえて、男言葉でそう言った。
ショーツを履き、ベージュのキュロットを履いた。
ブラを着けて、Tシャツを着た。

時計を見ると、10時半だった。
そのとき、恵子の心に1つの光景が浮かんだ。
「そうか、やっとわかった。」
恵子は、そのとき初めて歌舞伎へ行かなかった理由を察した。

恵子は、台所に行って、冷蔵庫から、タラコと鮭フレークを出し、炊飯器のご飯を見て、お結びを作り始めた。
4つ作り、一つ一つラップで包み、
お結び用の海苔を4枚、別のラップに包んだ。
それを、買い物袋に入れて丸めた。
濡らして絞ったお絞りを2つ。
500mlのペットボトル2本に麦茶を入れた。
全部を小さなリュックに入れた。

恵子は、メッシュの縁のある帽子をかぶり、家に出た。
よく晴れた日だ。
恵子の団地から、徒歩で頂上まで行ける山が、3つある。
恵子は、その内の一番低い標高198mの「見晴らし山」に向かって歩き出した。
山のふもとの女坂を選んで登り、
途中の分かれ道で、「くぬぎ峠」を選んだ。

薄っすらと汗をかいて来た。
くぬぎ峠は、木に囲まれている道で暗い。
だが、やがて、前方に、木々が開け、
陽だまりのようになっている場所が見えた。

そこにたどり着くと、思った通り、
男性の老人が、大きめの石に座っていた。
白い盲人用の杖を、膝の上に置いて、
風に、汗でぬれたシャツを、乾かしているように見えた。
そこだけ、大きな木の蔭になっていて、涼しそうだ。
あたりは、ひっそりとして静かだ。

 

<後編につづく>

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                           <老人と娘>

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