<第5話>「弘美はキューピッド」前編
5月30日。もうすぐ6月である。
外科病棟の看護師長・篠田沙月(さつき)は、
「お先に失礼します。」
と言って、ナースステーションを出た。
白いブラウスとグレイのタイトスカートに着替えて、病院を出て行った。
沙月は、7:3に分けた髪をぴっちり後ろへ回し、お団子にしている。
切れ長の目、綺麗な鼻筋、知的な唇。誰が見ても美人であるのに、化粧を一切しない。
メイクをすれば、さぞやとみんなが見ている。
常に地味な色の服装をしている。
身長165cm。
年齢は、28歳とナースでは最年長である。
年齢的には、男子看護師の湯川吾郎も28歳である。
沙月が、2LDKのマンションに帰って来たのは、午後の7時であった。
シャワーを浴びる。
体が冷めるまで、ジュースを飲んだ。
バスローブを脱ぎ、黒い下着を着けた。
スリップ姿で、ドレッサーの前に座る。
そして、メイクをしていく。
まつ毛をカールして、マスカラを上下に塗る。
赤系のシャドウを入れる。
眉を少し太目に描く。
チーク。そして、ピンクのリップを引く。
頭のお団子をほどいて、ブラッシングをする。
7:3に前の髪を分けて、髪の下部を膨らませる。
右の前髪が、右の目の上を通る。
沙月は、見違えるような美貌の人となる。
エンジのオシャレなワンピースを着る。
膝下10cm。
ネックレス、ピアスで飾る。
黒いパンプスを履き、黒いバッグを持って外に出た。
沙月は、タクシーを呼び、高層のホテルに乗り付けた。
その最上階のレストランに入り、
案内され、テーブルに着いた。
夜景が綺麗で、ずっと遠くまで灯りが見える。
向かいの席に来る人はいない。
付きあってくれそうな女友達もとくにいない。
沙月一人である。
今日は沙月の誕生日だった。
一人で淋しくはあったが、
年に一度の自分へのご褒美であった。
沙月は看護師になって2年目に、恋をした。
相手に、バージンも捧げた。
結婚できると思っていた。
しかし、その男にひどい裏切りをされた。
それ以来、沙月は、男性が怖くなった。
いや、恋することが、恐くなった。
心の中で、傷はまだ癒えていないと思っている。
普段ノーメイクで地味な格好をしているのは、そのためだった。
ただ、誕生日だけは、出来る限りのおめかしをした。
美味しいお料理をいただきながら、沙月は考えていた。
ナースステーションに一人、自分に好意を持ってくれていそうな看護師がいる。
彼となら、安心してお付き合いができるかも知れない。
自分のトラウマを乗り越えさせてくれるかも知れない。
どうすれば、彼と親しくなれるだろうか・・。
沙月は知らなかったが、沙月には、キューピッドがいた。
だが、キューピッドの矢は、まだ、沙月に届いていなかった。
明くる日、5月31日。
沙月は朝一番に、裕美のところへ行った。
「6月の当番表できましたか。」
「はい。できています。これです。」と言って、裕美は16枚のプリントを沙月に渡した。
「わあ、ありがとう。」沙月は言った。
当番表とは、1か月、朝番、遅番、深夜番をいつ誰がやるかを記した表である。
この表作りは、深夜番の回数がみな公平になるように。
また、当番を誰と組むかが、偏らないように、などなど、
大変面倒で気を遣うものである。
今までは、看護師長の沙月が1日がかりでうんうん言いながら作っていたが、裕美が、そういうのは、エクセルの関数を使えば簡単にできるというので、裕美にお願いした。
沙月は、当番表を見ながら、デスクについた。
ふと見ると、デスクの上に小箱があり、リボンが付いている。
メモが挟んである。
それを開いてみた。
『お誕生日、おめでとう。 Xより。』
沙月の心は、ぱあっと明るくなった。
中に、チョコレートが入っていた。
誰だろう。
おめでとうの字を見ると、女の子の文字だった。
そばに来てそれを見た看護師が、
「わあ、ごめんなさい。昨日お誕生日だったんですね。
うっかりしちゃった。」と大きな声で言った。
それを聞いて、みんなが寄って来た。
「わあ、ごめんなさい。でも、お誕生日おめでとうございます。」
「ありがとう。でも、プレゼント誰がくださったのかしら。」
と、沙月は言った。
女子は、みんな思い当たらず、
今朝出勤でない誰かだろうと思った。
しかも、昨日沙月より遅く帰った人。
裕美のそばに、絵里が、当番表を持ってやってきた。
小さい声で、
「これ裕美とあたし、けっこう同じ時間帯になってるけど、公平?」
と言った。
「うん。今月よくいっしょになっているから、来月は、いっしょにならないよ。」
裕美は大きな声で言った。
「なるほど。」と絵里は納得した。
この裕美の説明は、みんなに聞こえた。
沙月も聞いた。
沙月は、当番表を見て、月4回の深夜番(看護師2人、医師1人)が、4回の内2回も、看護師の湯川吾郎といっしょであることに驚いていた。
湯川吾郎こそ、昨夜レストランで考えていた『彼』であった。
この当番表こそ、キューピッド裕美が、二人の胸に放った矢であった。
観察力のある裕美は、2人の気持ちが分かっていた。
湯川吾郎は、沙月を見てばかりいる。
篠田沙月は、逆に吾郎から、あえて目を外す。
それは、意識している証拠。
二人の性格の違いが、そうさせる。
『今月は、一緒の深夜番が2回ありますが、来月はありませ ん。お二人とも、どうか今月中に気持ちを伝えてください ね。』
裕美は、そう心で言い、宙を見て、くすっと笑った。
■次回予告■
篠原沙月と湯川吾郎のお話の「後編」です。
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<沙月一人レストランにて>
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