「LGBT理解増進法」は 昨年 2023年の 6月に成立してしまった。
すでに混乱は始まっているが、これからもいろいろな混乱が生じるであろう。
自民党の岩盤支持者の一部も、これが理由で去っていくに違いない。
法律制定からもうすぐ丸 1年になるので、その直前に投稿した私のブログを再アップして改めて考えてみたい。
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動物の種の保存のための本能を、同じ動物である人間は前頭葉の発達で理性による善悪の判断へと進化させてきた。
それが良かったかどうかは分からない。
同じ仲間を殺してはならないという動物としての基本的な本能を、人間は正当防衛は善であり戦争でさえも権利であると 理性で踏み倒してきた。
しかし、それには理性であるがゆえに人々を納得させる理由づけが必要であり、そこに至るまでに長い年月を要してきた。
しかも、心の痛みという本能の痕跡を残している。
つまり、種の保存にそむく理念は極めて慎重で長い期間をかけて人々の了解を得る必要があるということだ。
その意味で、私は性急なLGBTの権利化には反対だ。
同性婚は子供を生まないから種の保存の本能に反している。
「生産性がない」といった杉田水脈議員の発言は その意味で正しい。
同性愛や同性婚を禁止している国は多い。
アメリカでも長年同性婚は禁止されてきた。
米軍では同性愛者は除隊処分だった。
いまでもアメリカの州によっては同性婚を禁止している。
同性愛を教義違反としている宗教も多い。
性転換や性自認によるスポーツ界やトイレ利用の混乱はご存知の通りだ。
LGBTを法制化して権利と行政の支援を認めよという最近の内外の圧力はあまりにも性急すぎる。
少なくとも、それを理性で認めるには、もっと慎重で長い期間をかけて人々の了解を得る必要があろう。
その間、LGBTの彼ら彼女らはどうするか?
私は、人間の権利には二種類あると思っている。
ひとつは、そのあり方を法制化して権利を認め 金銭を含む行政の支援を受ける「積極的な権利」だ。
もうひとつは、法制化も行政の支援も与えないが 逆に禁止もしないという「消極的な権利」だ。別に不思議な権利ではない。別の言い方をすれば「自由」ということだからだ。
私は、LGBTについて、人々の了解を得るまでの間は 後者の権利で我慢すべきと思う。
つまり、同性愛や性転換,性自認を禁止はしないが、法制化による同性婚や性転換,性自認の権利化と行政支援は人々の了解を得るまで行わない ということだ。
何か新たな権利を得るには、当事者の努力と苦労が必要なのは当然だろう。時間も掛かる。
種の保存の本能に反し理性的にも長年否定されてきたものを覆そうとするのだから、少なくとも一部の人から白い目で見られることはあろう。
まだ前者の権利がないのだから区別されるのも仕方なく、それを単純に差別と呼んで非難すべきではなかろう。
さらに覚悟すべきは、その結果で人々の了解が得られずに実現できない場合もあるということだ。
日本では、森蘭丸や寺子屋での稚児などのように男色は むかしから行われていた。
しかし、長い歴史において、それらは世間の了解が得られずに自然消滅するような形で現在に至っている。
LGBTの法制化はそれをリベンジするようなものだ。
だからこそ、長い時間を掛けて議論し、こうした「直ちに権利化はしないが禁止もしない」という見極めのプロセスを経て、世間の了解を得ながら法制化することが必要だと私は思う。
少なくとも政府は、LGBTの内外からの圧力に対して、「極めて慎重に検討し世間の動向を見極めて行くので、その間は法制化や行政の支援は行わない。ただし、そのあいだ禁止もしない」と主張して欲しいものだ。
上記のように日本には男色の歴史があり、欧米のような同性愛に対する厳しい弾圧の歴史と今に至る風潮はないのだ。歌舞伎や宝塚歌劇,テレビのオカマ出演を見て分かるように 性自認にも比較的寛容な国と言えよう。
残念ながら、報道によれば LGBTの法制化は もうすぐ成立しそうな状況だ。
私はマスコミにも非常に違和感を感じる。
何はともあれ、国民の意見が分かれるいろいろな案件では、政府は急いで法制化や支援を行うのではなく、「法制化や支援は行わないが禁止もしない」という見極めのプロセスを経て、国民の了解が得られたものについてのみ法制化や支援を行う、という手法を取って欲しいと思うのだが どうだろう?