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日本の現状を憂いて政治に関して思う事、子供の頃から大好きな日本史(特に幕末から大東亜戦争)、軍事関係で戦跡、史跡巡りをした時の写真などUPしていきます。

佐伯海軍航空隊①②ときましたが今回の③で終わりです。


兵舎跡に開館した「平和祈念館やわらぎ」内の写真も撮りたかったのですが、館内撮影禁止の為断念。この前福岡にある陸軍飛行場があった大刀洗平和祈念館に行った時もそうでしたが撮影禁止の所が多いです。何ででしょうかね?

やわらぎを見学している時に「この後、佐伯分遣隊庁舎の写真を撮りに行って来ます。」と言った所、説明をしてくれていた職員の方が「見学できるかどうか連絡してみましょうか?」と言ってくれ、私は外から建物を撮影するだけのつもりだったのですが、もし内部を見学できるものならまたとない機会だと思いお願いした所、佐伯分遣隊からOKの返事を頂いたとの事で行って来ました。

本来なら日曜日は見学できないそうですが、担当者がいた為ご厚意により見学させてもらえる事になりました。連絡をしていただいた「平和祈念館やわらぎ」の職員の方、佐伯分遣隊庁舎の案内をしてくれた自衛官の方にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

「平和祈念館やわらぎ」
http://www.city.saiki.oita.jp/shisetsu/yawaragi.html


佐伯海軍航空隊本部庁舎は6回に及ぶ空襲から難を逃れ現在でも海上自衛隊佐伯分遣隊庁舎として使用されている築70年を超える建物です。
戦後の一時期小学校の校舎として使われていたそうで、今でも黒板などが残っていて開かずの間になっているそうです。
近年、老朽化が激しく新庁舎を建設する事になり現庁舎を残そうと地元で保存運動が起こったのですが、解体される事になってしまいました。案内してくれた自衛官の方の話では建物入口の段差の所だけ残されるそうです。現在、現庁舎の裏側に新庁舎が建設されていて、今の建物を見れるのは来年の7月頃までと言う事です。是非この機会に在りし日の勇姿をご覧になってはいかがでしょうか。

YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
海上自衛隊佐伯分遣隊庁舎
YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
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資料室にある当時を再現したジオラマ
YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
開隊当時の写真(本部庁舎と兵舎が正面に見えます)
$YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
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YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
旧軍時代使用していた桟橋
※許可を頂いて撮影しています。


中江川沿いにある弾薬庫の数々
YOSSYのブログ-防空壕
演習弾庫
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火工品庫
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不明


大分にはあと一つ宇佐海軍航空隊がありますが、近い内に訪れてみたいと思います。
選挙関係で色々陰で動いてましたので暇がなかなか無く、ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。
①では正門を通った所まで。今回は敷地内に入ります。

佐伯市湾岸はハワイ真珠湾に形状が似ていた事から、この地一帯で大規模な演習が繰り返された。
そして、1941年(昭和16年)11月17日、真珠湾攻撃の機動部隊が佐伯湾とその近辺に集結、聯合艦隊旗艦「長門」が回航され同日、山本長官の訓示があった。翌18日から機動部隊各艦は企画秘匿のため出港時間をずらし、それぞれの寄港地から択捉(エトロフ)島単冠(ヒトカップ)湾に向かった。真珠湾攻撃を終え、機動部隊が戻ってきたのも出撃の地佐伯湾であった。

佐伯海軍航空隊は1945年(昭和20年)3月18日に米軍による初めての佐伯市空襲が行われ、以降8月14日に至るまで計6度に渡り空襲を受けた。なかでも4月26日の空襲は凄惨を極め、共同防空壕の一つに直撃弾が落下し多くの市民が犠牲になった。

九州各地の飛行場が特攻作戦のためにフル稼働する中、佐伯海軍航空隊は豊後水道の哨戒任務に専念していた。しかし、大和の出撃を最後に聯合艦隊の出入港は凍結され、佐伯空の哨戒任務の価値は大きく落ちていた。

戦艦大和最後の出撃となった天一号作戦の時、護衛機は無かったとされているが平成9年に兵舎跡地に開館した平和祈念館やわらぎを今回始めて見学した時、案内してくれた職員の方の話では豊後水道を通過する時に佐伯海軍航空隊から哨戒の為航空機が飛び立ったそうです。
「護衛機が一機もいないのは誠に何とも忍びない。せめて見送るだけの事はしてやりたい。」基地司令官の判断だったのでしょう。私はそう考えます。

以前はなかったが元兵士などで作られた郷土史研究会「歴進会」が案内板を設置していた。
現在佐伯市とホノルル市は2003年12月9日に友好都市協定を締結している。
きっかけは佐伯市在住の旧海軍パイロット赤松勇二さんが1995年8月、ホノルル市であった日米合同慰霊祭に招かれ、ホノルル市在住で日本軍の真珠湾攻撃の際、九死に一生を得た元米兵リチャード・フィスケさんと出会い日米両軍元兵士の交流から始まった事がのちに行政を動かし、佐伯市の方から友情都市締結を持ち掛ける親書をホノルル市に送り、ホノルル市はこれを受諾。こうして佐伯市とホノルル市の関係は始まった。


YOSSYのブログ-美国橋
奥の建物は佐伯海軍航空隊本部庁舎(現海上自衛隊佐伯分遣隊庁舎)

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橋脚と橋桁は当時のまま残っている。

YOSSYのブログ-美国橋
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YOSSYのブログ-佐伯基地分遣隊庁舎
佐伯海軍航空隊本部庁舎(現海上自衛隊佐伯分遣隊庁舎)

YOSSYのブログ-掩体壕
航空隊跡地に今も残る掩体壕。佐伯には2基現存しています。
YOSSYのブログ-掩体壕
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YOSSYのブログ-第二指揮所跡
第二指揮所跡
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床は抜け落ち、ガラス戸は所々割れていますが当時のまま残されています。

掩体壕は文化庁の登録有形文化財に原簿登録され保存されています。工場内にも関わらずこの二つの施設を取り壊さずに保存された㈱興人佐伯工場に対して厚く御礼申し上げます。

YOSSYのブログ-真珠湾攻撃発進之地
YOSSYのブログ-真珠湾攻撃発進之地
聯合艦隊機動部隊 真珠湾攻撃発進之地

碑銘を揮毫された山本義正氏は開戦当時の聯合艦隊司令長官 山本五十六元帥のご長男です。


佐伯海軍航空隊③に続く
以前、大分海軍航空隊を紹介しましたが、大分にはあと二つ航空隊の基地がありました。宇佐海軍航空隊(大分県宇佐市)と今回紹介する佐伯海軍航空隊(大分県佐伯市)です。

明治期の小説家、詩人として知られる国木田 独歩が英語と数学の教師として明治26年10月(1893年)に赴任した鶴谷学館(現佐伯市立鶴谷中学)で熱心に教育を行ったそうです。しかし、クリスチャンであった独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌明治27年6月末(1894年)に退職するまでの1年間過ごした地でもあります。

昭和9年開隊された佐伯海軍航空隊があった佐伯市は太平洋から瀬戸内海に入る豊後水道の入口にある。
呉軍港に出入港する艦船が必ず通過する為、この海域を防御する目的として帝国海軍は昭和6年より九州東岸に航空基地を建設する計画を立てた。候補地となった大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)と宮崎県東臼杵郡富高町(現日向市)の誘致活動の末、昭和6年8月に佐伯への設置が内定し、佐伯町は番匠川河口の女島を提供し、昭和9年12月1日に開隊を迎えた。当時はまだ普及率の低かった上下水道も完備された立派な航空基地であった。
各軍港に設置された航空隊が偵察専門であったのに対し、豊後水道防衛に備えた佐伯海軍航空隊は爆撃機を中心に編成され、内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた。自治体の呼び名は「さいき」であるが、旧来より呼び習わされてきた「さえき」を名乗る。先に同じ文字で始まる佐世保海軍航空隊が存在した為、機体識別記号は「サ」では無く「サヘ-機体番号」と記入していた。


YOSSYのブログ-海軍橋
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海軍橋
この橋を渡った先はすべて佐伯海軍航空隊の敷地でした。


YOSSYのブログ-佐伯海軍航空隊正門跡
佐伯海軍航空隊正門跡

YOSSYのブログ-佐伯海軍航空隊正門跡
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物置でしょうか?民家の一部に取り込まれている佐伯海軍航空隊正門跡

YOSSYのブログ-佐伯海軍航空隊正門跡
両端に佐伯海軍航空隊正門跡が確認できます。

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当時のままの佐伯海軍航空隊正門跡に続く塀
現在は文理大付属高校がある塀の向こう側にも軍の施設がありました。





佐伯海軍航空隊②に続く