今回は、大分県豊肥地区を回って来ました。豊肥地区とは竹田市(旧竹田市、旧荻町、旧久住町、旧直入町)、豊後大野市(旧三重町、旧犬飼町旧大野町、旧緒方町、旧朝地町、旧千歳村、旧清川村)の自治体の総称である。大分県内でも熊本県に隣接する地区であるから、旧国名の豊(豊後)肥(肥後)をとってこう呼ばれている。
まず大分市内から国道10号線を通って豊後大野市に向かうのだが、通り際の大分市戸次に戦跡があるのでまずは立ち寄ってみた。
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ここ戸次の地には、昭和20年7月末に飛行場が建設された。
飛行場跡は現在、宅地、農地に代わり飛行場の遺構は何一つ残されていない。唯一残されていたのは戸次小学校のグラウンドの片隅に埋もれていたこの転圧ローラーのみである。
次に豊後大野市三重町で豊後大野市在住の戦跡巡り仲間と合流し、竹田市に向かった。
竹田市で廻った場所を記してみた。
まず最初に訪れたのは、坂の上の雲にも登場していた廣瀬武夫海軍中佐生誕の地とお墓です。
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明治37年(1904年)日露戦争の旅順口閉塞作戦の時、姿の見えない部下の為に命がけで行動し、敵弾を受けて戦死、その壮絶な最期を讃えられ軍神第一号として故郷の地竹田に祀られ、「廣瀬中佐」として文部省唱歌にも歌われた廣瀬武夫海軍中佐は、慶応4年(1868年)5月27日、豊後国直入郡竹田町(現大分県竹田市)茶屋の辻に生を受けた。
ちなみに廣瀬武夫の生まれた慶応4年は9月8日より明治に改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用されるので明治元年でも慶応4年でも間違いではない。
また、現在我々が使っているグレゴリオ暦は、日本では明治5年(1872年)に採用され、明治5年12月2日(1872年12月31日)まで採用していた太陰太陽暦から、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)として、欧米の暦に合わせた。
生誕の地にある石碑の建立者は廣瀬勝比古。廣瀬武夫のお兄さんです。
生誕の地前の道。家から出かける度にこの道を廣瀬武夫が走り回って駆けて行ったのかと思うと胸に熱い物がこみ上げて来ました。
今回、戦跡ではないのになぜここを訪れたのかと言うと、一度ちゃんと来てみたかったのは勿論ですが、廣瀬武夫の生家は明治10年(1877年)に勃発した西南戦争の戦火が、ここ竹田の地にも及んだ時、この茶屋の辻一帯は激戦地となり、廣瀬家は焼失し焼け出されてしまった。
廣瀬中佐の墓に行く途中にあるこの看板も西南戦争の戦跡の場所を示すものです。今回は時間が無く行けませんでしたが、いずれ必ず訪れます。
廣瀬中佐の墓及び廣瀬家の墓の入口にも西南戦争の戦跡を示す看板があります。
廣瀬家の墓に登って行きます。
廣瀬家墓地です。
廣瀬武夫海軍中佐の墓です。
隣にあるのは廣瀬武夫のお父さん、廣瀬重武の墓です。
廣瀬武夫の墓から眼下を見下ろす。この辺りは現在竹田総合運動公園になってます。
下から廣瀬中佐の墓を見上げて見た。あの時代から106年後の今、楽しそうに野球をする少年達をきっと微笑んで見ている事でしょう
野球場の脇にあった西南戦争激戦の地の立て看板。133年前、この地で確かに戦いがありました。
次に訪れたB29墜落の地と海軍一等飛行兵曹粕谷欣三鎮魂碑は大分県内戦跡巡り(豊肥地区)②で紹介します。