「最後の特攻隊」 大分海軍航空基地跡(大分県大分市) | YOSSYのブログ

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日本の現状を憂いて政治に関して思う事、子供の頃から大好きな日本史(特に幕末から大東亜戦争)、軍事関係で戦跡、史跡巡りをした時の写真などUPしていきます。

ここ大分市にはかつて、昭和20年(1945年)8月15日正午の玉音放送の後に飛び立った最後の特攻隊の基地があった。

大分海軍航空基地

昭和13年12月  大分海軍航空隊として開隊される
昭和19年 3月  大分海軍航空隊は解体され大分海軍航空基地となる
昭和20年 8月  大東亜戦争終結
昭和32年 3月  運輸省所管となり大分空港(第二種空港)として使用開始される
昭和46年10月  新大分空港は国東半島東岸に移転 
昭和48年 3月  公園用地として払下げを受ける

現在は大分県営大洲総合運動公園として整備され、当時の面影はまったく残っていない。
地図で見ると旧大分空港滑走路、管制塔があったと思われる場所が見てとれる。
実際の大分海軍航空基地の敷地はもっと広範囲に及んだ。
当時と現在の写真を見比べて見れば分かると思う。

神風特別攻撃隊発進之地の追悼碑のみがそれを今に伝えている。
そこにはこう刻まれている。

昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊は この地より出撃せり その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し 

宇垣纏(五五・岡山) 中津留達雄(二三・大分) 遠藤秋章(二二・愛媛) 伊東幸彦(二〇・宮城) 大木正夫(二一・福島) 山川代夫(二一・山形) 北見武雄(二〇・新潟) 池田武徳(二二・福岡) 山田勇夫(二〇・千葉) 渡辺操(二二・千葉) 内海進(二一・岩手) 後藤高男(二四・福岡) 磯村堅(二二・山口) 松永茂男(二〇・福岡) 中島英雄(一九・愛知) 藤崎孝良(一九・鹿児島) 吉田利(二〇・滋賀) 日高保(二〇・鹿児島)
旧制大分中学五十八期会一同 
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之

YOSSYのブログ-神風特別攻撃隊発進之地
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昭和20年8月3日、鹿児島県鹿屋海軍航空基地より大分市牧の横穴壕に司令部のみ移駐してきた海軍第5航空艦隊司令長官宇垣纏(うがき まとめ)海軍中将は、正午に流れた玉音放送の後、艦上爆撃機「彗星」を直率し大分基地から沖縄へ飛び立った。701航空隊大分派遣隊指揮官中津留達雄大尉(大分県津久見市出身)率いる11機、22名の搭乗員たちがそれに従った。大分基地から飛び立った11機の「彗星」は、2機が整備不良のため、1機は敵艦を発見できずに不時着した。残りの機は、米軍の水上部隊に突入したり、伊平屋島の米軍キャンプ付近に墜落したりと様々な最期が語られ、真相ははっきりしない。

写真は特攻直前の大分基地、宇垣纏海軍中将
YOSSYのブログ_出撃直前の写真
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「この大分の地から最後の特攻をした人達が何を考え何を思い出撃して行ったのか、その気持ちは今となっては誰も分かりません。特攻は無駄死にだの、戦争が終わったのに死んでしまってバカだの、現在の日本から見ればそう思われるかもしれません。しかし、我々の先人達の気持ち、思いを理解し考えてあげる事が大切な事だと思います。それが現代日本人に一体何が足りないのか教えてくれるのではないだろうか。」


【補足】海軍第5航空艦隊司令部壕跡は大分市下郡から明野に上る坂の途中にある住宅地、ビオガーデン桜坂造成の折、埋められて姿を消しました。