吉弘統幸ゆかりの地めぐり | おおいたのさんぽみち

吉弘統幸ゆかりの地めぐり



石垣原の合戦に於いて、忘れてはいけない武将
『吉弘統幸』の ゆかりの地を回って来ました(*^-^*)

【吉弘発祥の地】

(楽庭八幡神社にある碑)
吉弘氏は豊後大友田原氏の庶流。
建武の頃 吉弘村に住み 吉弘と号す。

田原氏三代直貞の嫡子四代貞弘の弟、直貞の次男 又三郎正堅が
吉弘氏の初代となりました。

吉弘正堅は、現在の国東市武蔵町の 武蔵川支流吉弘川上流の丘陵地に
吉弘城を築き、姓も吉弘氏を名乗りました。

【楽庭八幡神社と吉弘楽】

吉弘楽は、南北朝時代に豊後国の守護であった大友氏の家臣、吉弘正賢(よしひろまさたか)が
この地域の領主となり、戦勝や五穀豊穣を祈願して始めたと伝えられ、
吉弘氏の厚い保護を受けました。

一旦衰微しましたが、吉弘村に数年の長き亘り、農作物の害虫被害が続き、
五穀豊穣虫祈祷の為、吉弘楽取立のお沙汰があり、村役人と吉弘氏ゆかりの都甲荘に行き、
吉弘楽の伝習を受け 再び吉弘村でも楽打ちが行われるようになりました。


吉弘楽の衣装は農民が用いる腰蓑を付けているのが特徴で、
これは虫追い行事からの伝統と言われています。
腰蓑を取れば兜や陣笠をかぶり旗指物をつけた武士の姿になります。
これは、戦場での吉弘軍を再現したものと考えられています。


この楽庭八幡神社の近くには、『吉弘七代の墓』もあり


吉弘氏初代正堅から七代親信までの墓(吉弘氏七代の墓)と、五輪塔があります。

【吉弘統幸の生まれ】
豊後国国東都甲荘で「吉弘鎮信」の長男として生まれました。
吉弘氏は屋山城が本城。


普段の住まいは屋山麓の「筧城」に置きました。(画像:筧城伝承地)


吉弘統幸は、父・鎮信が耳川で戦死後、吉弘氏最後の「屋山城主」です。

家督を継いだ統幸は、衰退していく大友家を懸命に支えますが、
島津家の驚異的な攻めで大友家の滅亡は時間の問題でしたが

大友宗麟が大阪城へ趣き、秀吉の傘下に入る事によって、
豊臣家の九州平定が始まり、島津家は 豊臣家に降伏し、
九州平定が完了する前後に、大友宗麟が亡くなり、息子の大友義統が
家督を継いだことで、大友家は豊後一国を安堵されます。

秀吉の天下統一後は、秀吉は朝鮮出兵を命じ、大友家も 朝鮮出兵に参加し
吉弘統幸は、敵の名将李如松の軍旗を奪う手柄を挙げ、秀吉から「無双の槍使い」と賞賛されました。

しかし、主君の大友義統が 小西行長を見捨てて敵前逃亡をしてしまう事件を起こし、
それに激怒した秀吉から、豊後を没収されてしまいます。

大友義統は、毛利照元の所に幽閉され、
主君を失った 統幸は浪人することになってしまいました。

その時、既に優れた武将として知られていた統幸は、、すぐに黒田官兵衛に招かれ、
黒田官兵衛の家臣である井上九郎右衛門の家に預けられ、
黒田家の食客になったそうです。

その後、柳川の領主であった従弟の立花宗茂に2000石の待遇で
仕える事になりましたが、秀吉が逝去した翌年に、元の主君義統が解放され、
義統は江戸から京都に移り、本能寺の一室に側室と男児正照とともに住みましたが、
大阪で、徳川家康と 石田三成が対立して、

慶長5年(1600)、大友義統は、大阪方から正照と側室を大阪城へ連れ去れてしまいます。
又、旧領土の豊後を回復するために
義統は、同年9月、安芸(広島県)の大畠にくだり、毛利輝元から
兵船と鉄砲隊を与えられて、東軍の徳川家側から、
西軍の石田三成・毛利側に変更して豊後入りを決意させられます。

その途中、柳川の立花宗茂の所に身を寄せていた吉弘統幸が
江戸の徳川家康や秀忠に仕えていた義統の長男能乗(よしのり)に仕えるために
小倉から乗船して、周防上関(山口県)で義統に出会い、

「殿のご子息は徳川家の元におられるので、殿も徳川家にお味方をなさるべきです。
石田に与して勝利したとて、末代まで悪名を残してしまいます。」と
義統に東軍に味方するよう説得しましたが、義統は それを聞き入れず、
統幸は江戸行きを中止して 元主君への忠誠を貫いて
敗北を予感しながらも義統に従う事にしました。

【石垣原へ】


豊後へ到着した大友軍は、木付城を攻め、吉弘統幸は
木付城の二の丸まで陥落させましたが、黒田官兵衛の軍がやって来て
城攻めを断念し、石垣原へ向かいます。

【吉弘嘉兵衛の本陣跡】

現在は、公園として整備されています。


この「坂本」の台地一帯は、天下を二分して戦われた関ヶ原の戦の二日前の
慶長5年(1600)9月13日に、西軍石田三成方についた旧豊後国主22代
大友義統と、東軍徳川家康方の前中津城主黒田官兵衛孝高(如水)が
激突した、いわゆる石垣原の合戦において、大友方右翼の将として
その名を馳せた吉弘嘉平衛統幸の陣があったとされる。

吉弘統幸は旧主君挙兵の報を聞き、豊後立石村にはせ参じ、
この合戦にいて鬼神のごとき活躍で、二十数騎の敵将を討ち取り、
黒田軍をおおいに苦しめたが、七番掛けで遂に力つき討ち取られたといわれる。
行年38歳であった。(現地説明板より)

統幸の戦いぶりは、母里太兵衛の軍勢を破るほど すごかったそうです。

【石垣原古戦場跡】

九州大学付属病院の南側バス道路沿いにある私設公園。
「石垣原古戦場跡」の石碑や、


両軍の無名戦士の供養墓が数基安置されています。

【石垣原古戦場激戦地「七ツ石」】

この付近は古くから「七ツ石」と呼ばれ、石垣原合戦の時、戦場となった所である。
中津城にいた徳川方の黒田官兵衛孝高(如水)は、8000の兵を率い、
杵築 亀川を経て、加来殿山実相寺山に陣を布いた。

慶長5年9月13日、両軍は山を降り、7度に亘り戦い、七ツ石付近の原野は
血に染まったと語り継がれている。宗像鎮続(むなかたしげつぐ)は倒れ
傷ついた統幸は、今はこれまでと 血刀を杖に家来共々引き連れて
「七ツ石」を跡に石垣原付近まで昇り、遥か彼方別府湾上に昇り来る月影を眺めながら

「明日は誰(た)が草むす屍(かばね)や 照らすらん 石垣原の今日の月影」

と辞世の句を詠んで自刃した。その時後を追うて来た黒田軍の将子小栗治左衛門は
統幸の首をとり、黒田の陣に引き揚げたという。

この日の戦いで大友方は吉弘統幸、宗像鎮続、都甲兵部など、
黒田方は久野治左衛門、曽我部五右衛門など、多くの家来を亡くした。
この戦いで黒田方は勝ち、大友義統は降伏した。
鎌倉時代以後22代約400年の長い間豊後を支配した大友氏の時代は終わり、
徳川幕府の支配するところとなった。(現地説明板より)

ドラマでは、井上九朗右衛門と一騎討ちをした大友軍の武将・吉弘統幸は
かつて黒田家の食客と説明されていました。


井上九郎右衛門と、吉弘統幸の一騎討ちについて『黒田家譜』には、こう記されています。

 
「此所石垣原の南北の半より四丁ばかり南、立石の方によりて、
野中に忠内が堀とて、わざとほりたる如くなるから堀あり、東西に長き事百間余、
横が三間ばかり有て、南岸は高さ一間あまり有。下の方にほりの少まがりたる所あり。

其所に吉弘は南の岸の上にたち、井上は北の岸の上に立てあひ向ふ。
両人は、先年よりしたしく馴近付たる事なれば、久しくて参り会たりとて、
しばし物語しけるが、いさや花やかに戦て、勝負を決せんと互にいひ合せて、
面もふらず戦ひける。

九郎右衛門は勝れたる勇士なりしが、たけひきく力劣りけり。
吉弘ハ 聞こゆる大力にて、ややもすれば井上ハたたき付られ、
あやうく見えし處(ところ)に、九郎右衛門が運やつよかりけん。
吉弘がつきける鎗、九郎右衛門が鎧(よろい)の胸板に幾度もあたりて、
鎧の毛處々切るるはかりなれども、皆鎧の上なれは通らず。

井上が鎗、吉弘が内冑に突入けるに、十文字の横手にて、
左の頬先をしたたかにかくる。

 加兵衛ハ冑(かぶと)の緒きれ、かぶと顔にかかりて目を覆へバ、
鎗をもつて みだりに打払ひ、後へ退ける。吉弘が鎗を引とる時、
左の腋(わき)の下具足のはつれに、襯(はだぎ)の青く見えけるを、
井上よき透間よと思ひ、鎗にて突しかは、あやまたす左の腋の下に深く突入たり。

 吉弘心はたけしといへとも、今朝よりの合戦につよくはたらき、
すへて敵を討取事二十三人なりしかは、戦ひつかれ、其上両所深手を負、
殊に腋の下の疵いた手なれは、忽(たちまち)によはりて戦ふ事あたハす。」

一説には、もう勝ち目がないと悟った統幸が、
かつて親交があった井上九郎右衛門に自分を討たせ 昔の恩に報い、
九朗右衛門に功を挙げさせるため、自刃して討たれたという説もあるそうです。

そんな統幸のことを『黒田家譜』では、
 「吉弘がごとき眞の義士は、古今たぐひすくなき事なり」と、絶賛しています。

義理堅い武将だった吉弘統幸。。。

統幸の、壮烈な最期を聞いた官兵衛さんも、
忠義と勇猛果敢な豊後の武将の死を惜しんだそうです。。。


黒田方の 井上九郎右衛門と 大友方の吉弘統幸の戦いは
涙なくしては見られません・・・(´;ω;`)ウゥゥ

【金宗院跡】

吉弘統幸の死後、統幸の首は、石垣原の獄門台に晒され、
吉弘家の菩提寺の住職が、ひそかに首級を持ち帰り、寺内に葬った。
終戦後、寺は無住となり、寺屋は崩壊し、金宗院の名のみ残してきたが、
吉弘氏の子孫や地区の住民により、供養塔が建てられ、
金宗院跡として遺されている。(説明板より)


金宗院跡からは、統幸が城主だった屋山城のあった屋山が見えました。

【吉弘悲話と吉名川】

吉弘統幸ゆかりの民話です。


きらびやかな文化の時代、安土・桃山。
その一つの時代の終わり頃、関ヶ原の戦いの二日前のお話です。


屋山城主であった吉弘嘉兵衛統幸は、黒田如水(官兵衛)の大軍八千と
別府の石垣原で戦いました、しかし、統幸の軍二千では勝利を収めることはできず


とうとう統幸は戦死しました。そしてその首は
石垣原の獄門台にさらされました。


敗戦を聞いた菩提寺、金宗院の住職は、統幸の霊をとむらうために、
その首を石垣原へ取り戻しに行きました。

 

統幸の首は、風に光るかやの原の中に変わり果ててさらされていました。


住職が涙ながらにその首を背負い、鹿鳴越から奥畑をとおり
やっとの思いで松行まで帰り着き、前の川で首を洗おうとした時です。


統幸は「カッ」と目を開け、「ああ、住職、よしな(吉名)」と叫んだのです。
住職は驚き、洗うのをやめました。


そして、寺に持ち帰り厚く供養しました。
それからは、いつしかこの川を「吉名川」と村人は呼ぶようになりました。

上記の看板は、金宗院跡に向かう道に設置されています。

もうひとつ、天念寺の手前の駐車場にも看板が設置されていますが、
そちらは 看板の手前に 木が茂っていて、読む事が出来ませんでした。


※天念寺方面の看板

【吉弘神社】
別府市の吉弘神社にも、統幸のお墓があります。

吉弘神社の由来の中には・・・。
首級は実相寺山に陣を張る黒田如水の命により、吉弘の郷里屋山城(筧城)に送られました。
享年38歳、その屍は宝泉寺の僧侶、里人と共に此の地に葬り
「統雲院殿傑勝運英大居士」と諡られました。
吉弘統幸の墓は本殿の裏側にあり、右側の板碑型の墓碑が吉弘統幸の墓と伝えられています。


神社は大正12(1923)年9月、吉弘統幸の子孫吉弘茂義氏が官許を得て創建しました。
現在の拝殿は平成13(2001)年に造営されました。


吉弘統幸墓(別府市指定有形文化財)
社殿の裏手にある板碑型の墓碑は、慶長5年(1600)9月13日に行われた
石垣原合戦で戦死した大友方の武将、吉弘統幸の墓といわれています。

墓は総高1.85mで、頭部は丸く加工され、前面は平滑に削り、
額部の突出があるなど板碑の形式を踏まえた様子が伺えます、
刻銘は確認することができません。(説明板より)


近くにある石殿は、吉弘統幸の二男正久が仕えた細川氏が建立したもので、
正面の屋根の棟には吉弘氏の家紋が刻まれ、裏側の屋根の棟には
細川氏の九曜紋が刻まれています。

【宝泉寺】

吉弘統幸の菩提寺です。


吉弘統幸は、大友能直、大友宗麟と共に、豊州の三偉人と称され、
当寺は吉弘公菩提寺になり、明治32年参百年諱を営み誠忠無比の徳をたたえたり
(宝泉寺縁起より抜粋)

以上、駆け足で廻った 吉弘統幸ゆかりの地でした~。

この他にも感動の実話や、いろんな逸話があると思います♪

言葉足らずなブログなので、 もし いろんなお話をご存じの方がいらっしゃったら
ぜひ 補足して戴きたいと思いますぅ。

最後まで読んで下さったみなさま、 ありがとうございましたぁ♪\(^o^)/

【参考】
現地の説明板
大分県作成のパンフレット
別府市作成のパンフレット

「べっぷの文化財No.44-石垣原合戦-」/別府市教育委員会
「吉弘嘉兵衛統幸について」/矢島嗣久著