東大理学部附属植物園 | 老$の徒然草

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もうじき80歳、ブログはボケ防止の頭の体操
This blog is essays in idleness by Oidoru and a trivia expert monologue.      

地下鉄の茗荷谷駅を降りて播磨坂を下っていた。
昼飯を食べようと思ったが、それらしいお店は見当たらない。
そのまま、歩いていたら麦とろの看板、入り口のメニューを見て、何にするか思案、
結局、卵焼きが付いた麦とろ定食に決めて、店内に入った。
ところが、お昼の時間が終わったと言う。

そのまま目的地に向かった。
入り口のところに『本日休園』の看板、今日は月曜日だった。
3年ぶりの東大理学部附属植物園だった。
今日みたいな日は、〝マーフィーの法則〟?

丁度60年前に小学校の美術の先生に引率されて園内の写生大会に参加した。
参加すれば、そこでサクラクレパスをもらえたからだ。
当時は、そんなものも貴重品だった。
その後、学校で写生大会の絵をリッジウェイ中将賞に応募するというので先生から呼ばれた。
いきなり、〝将来何になりたいか〟と聞かれた。
千葉の田舎から出てきて間もないから応えられずに無言、・・・・
先生がかってに、『代議士』と書いた。
初めて『代議士』という単語を見た。
その後、何の音沙汰もなかったし絵も返ってこなかった。

この植物園、元は徳川幕府の薬草園、あの赤ひげ先生の診療所もここにあった。
明治の初めには、樋口一葉が助教を務めた歌塾の塾生と毎年お花見を楽しんだところ。
関東大震災の時は、ここで被災した人が暮らした。
*リッジウェイ:マッカーサー元帥が解任された後のGHQ/連合国軍最高司令長官(1951年)

田舎の学校と違って東京・文京区の小学校は、担任の先生とは別に美術と音楽の先生がおられた。
先の美術の先生が、ある時学校で仲間を集めてデッサンだかクロッキーをやった。
しかし、モデルを呼んだのが露見した。
この先生のおかげで「代議士」の次に「ヌード」という言葉を覚えた。
音楽の先生は放課後になると自分の娘にピアノを教えていた。
高校へ進学するのもクラスの半分だけ、まだ貧しい時代だった。

植物園の手前にある共同印刷。
ここの労働争議を題材にしたプロレタリア文学作品が徳永直の『太陽のない街』。
本人がここの植字工だった。

私の子供の頃は、文京区は印刷の町だった。
共同印刷、凸版印刷の製本を家内工業でやっていた。
道具は、30㎝の竹の物差し、それを使って印刷した紙面を半分に折っていた。

最近、若い世代における非正規雇用の増大や低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、小林多喜二の『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになった。

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