札幌には、ほとんど台風は来ません。
大きな台風でも、北海道にはほとんど上陸せず、太平洋上へ反れます。
たまに来たとしても、強風・大雨ほどで木が倒れたり、一角が冠水する程度です。
地震は一番大きくて「震度3」です。
私は札幌に住んで、今年で27年になります。
一度も避難したことはありません。
一度も命の危機にさらされたことはありません。
沖縄から日本に上陸した台風は、北上しながら日本中を破壊。
一度に多くの命が亡くなる。
家族が友達がペットが、急にいなくなる。
遺体で見つかる場合、行方不明とはいえ絶望的な場合。
住んでいた家がなくなる、学校がなくなる、見慣れた景色が、街がなくなる。
札幌に住んでいる私たちは、報道でそれをずっと見ていました。
かわいそうに。
見ていられない。
どんなに辛いだろう。
私だったら。
僕だったら。
悲痛な気持ちはどれも本心です。
でも実際には体験はしていないのです。
私は、「東日本大震災」の時こう思いました。
被害にあった人たちは、今は多くのものを失い、窮地に追い込まれている「弱者」だけれど、多くを失って、失いかけたことで、初めて気付き得るものは多く、一生心に残るだろう。
それが今後生きていく上での「不動の軸」となるだろう。
かえって、
災害のない札幌に住む私たちは、家族の命の尊さに気付くきっかけがなく、日常生活のありがたみにも気付くきっかけがなく、人間として「愛」に気薄になってしまっているのではないだろうか?
・・・と思いました。
皮肉なことですが、やはり
失ってから気付くこと
失いかけて気付くこと
があり、それは実際に経験した人にしか感じられない感情から得る「気付き」だと思うのです。
「皮肉なことに」といったのは、引き換えに得られる「気付き」だからです。
個人の人生の上で、その「皮肉なこと」が起こり、多くの気付きを得ることはあります。
ただそれと、県レベルの範囲で土地が壊れ、たくさんの知人が同時期に亡くなり、家がない、食べる物がない、全員が被災者という状況とは、どちらがどうという事ではなく、別物だと思うのです。
私は、札幌に住む人の「人間力=愛」を信じたいです。
でも、皆別のルールで生きていますからキレイ事ばかりは言えません。
でも、信じたいのです。
私たち、札幌に住む者がまだ経験をしていない「災害体験から得られる気付き」を埋めるのは、「想像力」しかないと思います。
私たちは、熊本の様子を報道で見ています。
福島のことを思い出しながら、皆見ていると思います。
映像で悲惨な状況を見ると、そちらにばかり気持ちが行きがちですが、ボランティアや募金も良いと思いますが、それと同時に自分の家族や身近な人を大切にしているでしょうか?
身近な人で、あなたの力の及ぶ範囲で助けられる人はいないでしょうか?
被災地でも、多くの人から温情を受け、幸せを感じている人がいます。
被災地でなくても、水も食べ物があっても、心の居場所がなく不安の中泣いている人もいます。
熊本も大事。
身近な人にも手を差し伸べることも大事。
今、あるものに感謝して。
EDIT by BLANC
大内茉住見