澄み渡る青空の中、皆で犠牲祭のお祈りを済ませてから、私たちのアカデミーの牛は屠られました。




私は10年の間に、この国で何度もこの行事を見ていますが
何度見ても、自分も胸にナイフを突きつけられているような、なんとも言えない暗澹たる気持ちになります。

可視化されていないだけで、私たちが食卓でいただいている動物や魚たちは、こうして毎日人間が食べるために殺められている。

その不動の現実を目の当たりにした時、私たちの生は他の生命の犠牲により成り立っているという、太古からの大きな命の螺旋とその中での人間の業に、畏怖の気持ちすらかんじます。

しかし同時に、生きている私たちは毎日食べていかなければならず、生きることは食べることでもあり、
そしてそれは
生きることは残酷なことなのだということを心に刻む、貴重な機会でもあります。

コルバニイードは元々イスラム教の聖典コーランに書かれている神と人間イブラヒムとの信仰の物語の中のエピソードで、神への信仰心の証明であったり色々な解釈があるのですが、現在は富める者が貧しい人々に富を分け与える機会として、屠られたお肉は周囲のお肉を食べられない人々に分け与えられます。

小さい子の中には、まだ意味がよくわからない子もいるでしょう。
ただただ怖い行事だった、または残酷さの意味すらまだわからないかもしれません。

けれど、少なくとも、お店で並んでいるお肉がもとは私たちと同じく生きている動物であったこと、その命をいただいていること、潜在的に感じてその有り難さを感じてくれる日が来ると思います。




お肉はスパイスいっぱいで煮込んだカレーとなりました。





昨日まで生きていた牛が
今はお肉となり
食べられて私たちの血となり肉となること。

世界の食物連鎖の中で、
私たちは生きていること
生かされていること。

そうしたことを忘れさせずにいてくれる、
コルバニ・イードの犠牲祭です。