▼本日限定!ブログスタンプ
旅の日 由来
⑤月①⑥日は旅の日。
①⑥⑧⑨(元禄②)年⑤月①⑥日 松尾芭蕉が『 奥の細道 』の旅に出発したことが由来です。日本旅のペンクラブが制定しました。
旅の日 制定した日本旅のペングラブとは⁉️
日本旅のペンクラブのサイトによると•••
『 旅の日 』とは、ともすれば忘れがちな旅の心を、そして旅人とは何かという思索をあらためて問いかけることを目的に、昭和⑤③年(①⑨⑧⑧)に日本旅のペンクラブが提唱して誕生したものです。
とあります。
日本旅のペンクラブ(旅ペン)は①⑨⑥②(昭和③⑦)年⑥月②⑧日に設立。
会員には旅行ジャーナリスト、ライター、WEBライター、編集者、作家、歌人、写真家、画家、ラジオパーソナリティー、弁護士、建築家、大学教授など多彩な職業の人が所属。そして、この団体なんと会長は西行(平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶・歌人)副会長は松尾芭蕉です。旅ペンでは『 日本旅のペンクラブ賞 』を旅の文化の向上に寄与したと認められる団体、個人、行政機関等に贈っています。受賞者は幅広く、秋田県横手市朝市のベテランおばあちゃんや京阪・定期観光バス運転手、東日本大震災の翌年(2012年・平成24年)には、福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズが受賞しています。
旅の日 松尾芭蕉ってどんな人⁉️
松尾芭蕉といえば『 奥の細道 』が有名で、旅の日の由来にもなっています。
芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師(はいかいし)。伊賀出身のため、忍者だったのでは?という説があります。ほぼ同じ意味ですが、俳句は明治時代に正岡子規によってできた言葉で、俳諧は俳句の源流となるものです。芭蕉は、伊賀の国の土豪一族に生まれ①⓪代で侍大将に仕官していました。初めて句を詠んだのは①⑨歳の時。②⑨歳には、上野天満宮(三重県伊賀市)に初めての句集を奉納しています。江戸に来たのは③①歳の頃。③⑥歳で江戸深川に居をかまえ、ここで初めて『 芭蕉 』の号を使っています。芭蕉とは、バナナに似た花や実をつける大きな葉の植物のことです。
④⓪歳で『 野ざらし紀行 』の旅に出て、東海道を西へ向かい、故郷である伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張をまわりました。紀行とは、今でいう旅行記や旅のエッセーのこと。奥の細道も同様です。この旅から帰ったあとに詠まれた有名な句がこちらです。
その後④③歳のときにも伊賀に向かう旅に出ています。弟子の河合曾良(そら)とともに『 奥の細道 』の旅に出たのは④⑤歳のとき。西行⑤⓪⓪回忌に当たる①⑥⑧⑨(元禄②)年のことです。芭蕉にとっては未知の世界である、下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、北関東から東北、北陸をめぐる旅でした。
奥の細道で詠まれた有名な句がこちらです。
松尾芭蕉は①⑥⑨④(元禄⑦)年大阪御堂筋の商人の貸屋敷で⑤⓪歳の生涯を閉じます。
そこで詠まれた最期の句がこちらです。
松尾芭蕉が忍者だったという説••• 本当⁉️
松尾芭蕉が忍者(隠密)だったのでは⁉️という説があります。その理由は③つ。
①つ目は•••『 奥の細道 』の行程です。『 奥の細道 』で歩いた距離は六百里(2400㎞)。到着日数を計算すると④⑤歳で一日平均⑤⓪㎞を歩いたことになります。
②つ目は••• 伊賀にいた当時服部半蔵につながる一族に仕えていたこと。
③つ目は••• 芭蕉に限らず連歌師や俳諧師は各地を旅していたためスパイの任務を担うことがあったというのが理由です。
『 奥の細道 』では、現在の栃木県黒羽町で①③泊、福島県須賀川市で⑦泊していますが、仙台藩では名所の松島では句を詠まず①泊だけ。これは、仙台藩を調べる機会をうかがっていたからではとも言われています。
仙台藩は、伊達政宗を初代藩主とする⑥②万石の外様大名で、江戸幕府が恐れる存在。この頃、不穏な動きがあると疑われていました。松尾芭蕉が忍者だったかは、定かではありませんが、歴史の”もしかして”はおもしろいですよね。