~その9で 間違いを記載しましたので訂正いたします。
俳優 加納省吾は、新人監督 根岸吉太郎氏の目に止まり、第1回監督作品 日活「オリオンの殺意より 情事の方程式」でいきなり主役に抜擢され映画デビューしたのだ。
第二作は 日活「青い獣 ひそかな愉しみ」 で再び主役を演じている。
そして第三作目出演が 大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」に出演、準主役クラスを演じている。
この映画では、古尾谷雅人、柄本明、伊藤蘭、小倉一郎、阿藤快、内藤剛志に続いてキャスチングされている。
この作品で彼の役者人生も確かなものとなったははずだ。
芸能座仲間も驚きと羨望をもって彼の活躍を、何か遠い人を見るように見ていた。
俳優を目指す者誰もが欲しい輝かしいスタンスを、彼はあっという間に手にしたのだから。
言っておくが、では彼が稽古場で目覚ましい役者としての才能を発揮していたかといえば、少なくとも私には感じられなかった。
稽古に熱心であったか? 否。
人間として優れていたいたか? ごく普通経ったと思う。
しかし与えられた容姿は天性のもので、福山雅治、ひと昔前なら草刈正雄的な二枚目であった。
一緒に街を歩いていると、女の子の多くが振り返った。
無論私ではなく彼を。
駅のホームに立っていると、向かいのホームのベンチに座っている女の子が彼の方に向かって股を開いて下着を見せるのだそうだ。誘っているのだそうで、そんなことはしょっちゅうだそうで、私には到底考えられない事が良くあるんだ、と言っていた。
恐らくやりたい放題だったのだと思う。
黙っていても向こうから寄ってくるのだろう。
これもまた、だれもが持ち合わせていない特別な”才能”なのだろう。
いや、スターの条件とはそういうものなのだろう。
彼は天からその一番大事な、容姿であれ何であれ、誰もが持ち合わせていないモノを授かっていたのだ。
私は違うから構わなかったが、二枚目を自負する諸先輩たちの心中はいかがなものであっただろうか・・・。
一度彼に招かれて練馬の実家に夕食をごちそうになりに行ったことがある。
一月の寒い日で、最寄り駅から少し歩く普通のサラリーマンの家庭だったと思う。
北海道の果てオホーツク海から来た私に何らかの興味をいだいてくれたものか・・・。
用意ができたとお母さんが声をかけてくれた。
彼の二階の部屋から降りてゆくと台所の一間に炬燵が置かれていて、あまり明るくない部屋の炬燵の上に鍋が用意されていた。
側に小さな石油ストーブが一個置いてありボソボソと燃えていた。
ストーブがあっても、その部屋はひどく寒くかった。
北海道の家ではみなストーブを真っ赤になるほど燃やして、うちの中では薄着をして過ごすのだが、聞けば、東京人はみな、こんな感じで短い冬を過ごすのだそうだ。
つけてくれた熱燗から湯気が出ている。鍋から湯気が出ている。みんなが狭い炬燵に入ってジャンパーか何かを羽織って着たまま飲み食いし、吐く息が白いのだ。
信じられなかった。寒すぎて・・・。
外の車庫か何処かで焼き肉か、キャンプでもしているような・・・。
北海道弁で”あずましくない” ”全然落ち着かない”そんな感じだったが、東京ではどこの家庭でもこれが当たり前だといったのを聞いて、唖然としたのを思い出す。
そんな彼がある日私に言った。
「俺、もう役者辞めようと思ってるんだ」
「え!どうして。何かいやなことでもあったのかい?」
「いや別にそんなことはないけれど・・」
「じゃどうして?」
「なんだか、こんなことをしていても、この先どうしようもないと思ってさ・・」
「どうしようもないって、どういうこと?」
「いや~特別な理由はないけど、何だか嫌になってね・・・」
結局彼加納省吾は、この三本の映画出演を最後に本当にこの世界から足を洗ってしまった。
誰もが憧れても憧れてもどうしてもたどり着けない、掴みとれないその輝かしい立ち位置を、
彼はいともあっり手にし、
そしてこれまたあっさりと手放してしまったのだ。
何とも理解し難い、この世の不思議を目の当たりにし、そしてこれが私の人生の最初に味わった、解し難い世の理不尽という現実だった。
やがてその彼が、50歳を超えて間もなく、病で亡くなったと随分後になって人伝てに聞いた。
更に後年、作詞家の門谷憲二先生と酒を飲みながら色んな話をしていると、私が芸能座という劇団にいた昔話から、一緒だった加納省吾の事を思い出して話してくれた。
彼は清掃会社を企業していて、その広い会社のオフィスの一角を門谷先生が格安で借り、作詞家数人とそこを拠点に活動していたこと、そして良く一緒に食事に行ったことを思い出して下さり、元気な頃の彼の様子が聞けて、何か因縁めいたものを感じたものです。
イイ男で、イイ奴だったのだ。
求めても求めても手にすることが出来ないまま、右往左往しながら人生を歩き、辿り着けずに終る人。
方やスルスルとあっさり上り詰め活躍して行く人。
それをまたポイと捨てる人。
そこに決まった理由など有りはせしない。重ねた努力が必ずしも報われない、それはここ芸能界の、いやあらゆる世界の常なのだ。
若い私はそんなことも判らず、自分の可能性だけを信じ、彼から聞かされた話も理解出来ないまま、それからも暫く東京の街で私は右往左往していたのだ。
しかし彼の決断は、後の私に少なからぬ影響を与えたようだった。
つづく