1989年、平成元年9月10日日曜日、それは秋晴れに始まった穏やかな一日の午後の事だった。
実家のすぐ隣に新築した、自宅の固定電話が鳴った。
母からだった。
お父ちゃんが、胸が苦しいと横になってるんだけど。。保則ちょっと来てくれないかい。。
私は直ぐに階下に降りて行き、母屋の裏玄関から台所を通り抜け居間に入った。
父が座布団を枕に仰向けになり、左胸に右手を当てながらこちらを向いた。
おう。。。
どうしたの?
ウン、なんだか胸がちょっと苦しくてなぁ。。
その声が細い。。
これは只事ではない!直感が動く。
救急車呼ぶかい?!
いや。。その内治まるべェ。。。
声に全く力が無い。
ダメだ!直ぐに呼ぼう!
受話器を握った私に父は言った。
サイレン鳴らさないで来る様に、言ってくれ。。
消防団長を務める父は、かすれた声で言った。
もしもし、緑町の南川です。
父の様子がおかしいので、至急救急車を回してくれますか。。
その際、本人はサイレンを鳴らさないで来てほしいと言ってますが、そうしてもらえますか?
50メートルも離れていない消防署から赤色灯だけを回した救急車が直ちに到着した。
緊急隊員が二人入って来て急ぎ脈を取り、症状を確かめた。
そして無線連絡を入れた。
至急搬送病院の手配願います!
直ちに応答があり、父は運び込まれたストレッチャーに物々しく移され、急ぎ遠軽(エンガル)厚生病院ヘと運ばれて行った。
青ざめる母が同乗した。
救急車は突き当たりの大通りを左折した途端、けたたましくサイレンを鳴らし始めた。
その音を聞いて、私の心臓は一気に高鳴った。
家の鍵を閉め、取るものも取り敢えず、車で後を追った。
遅れて着くと、父は緊急処置室隣の病室に寝かされていた。
酸素マスクをして、数本の点滴を受け、心電図が波形を打って鳴っていた。
私の顔を見て言った。
大丈夫だ。。
その声は細い。。
側に座る母の顔は心配で溢れている。
そして数分もしない内に、父の呼吸が荒さを増して行った。
私は直ぐに隣の救急室へと向かった。
医師が駆けつけた。
南川さん!南川さん!
聞こえますか!
南川さん!
医師は父のホッペタを何度も叩いて叫んだ。
その呼吸は苦しさを増してゆく。。そして身体を大きく反らした。
ダメだ直ぐ増員して!!
看護師が走る。
直ちに二人の医師が駆けつけ緊急処置が始まった。
一人の若い医師が父の身体の上に乗り心臓マッサージを始めた。
そして私と母は別室に呼ばれた。
主治医と思われる医者が言った。
心筋梗塞です。
かなり重篤です。
。。。残念ですが。。余命は僅かだと思います。
エッ‼️
。。残念ですが。。
えっ‼️。。。。
私と母は、その言葉をニワカには信じられなかった。
何とか助かる見込みはないのでしょうか!
。。誠に残念ですが。。。
心臓大動脈が切れて、多分今、体内にその溢れた血液が広がっている状態だと思います。
エッーー‼️
そこへ看護師が血相を変えて走って来た。
先生すぐ来てください!!
医師に続いて私達は病室に駆け込んだ。
馬乗りになった医者が心臓を押し続けていた。
心電図は波形を作っていた。
医者は父の頬を何度も叩き、名前を呼び声をかけた。
ペンライトで瞳孔に光を当てた。
そして医師は言った。
残念ですが。。
この波形は心臓を押しているので作られていす。。
もう、既に亡くなっている状態です。。
。。。。。。
このまま心臓マッサージを続ける事は。。大変難しいです。。
二人の医師が代わる代わる身体の上に乗りマッサージを続けていた。額には汗が滲んでいた。。
私達は決断を迫られていた。
私は言った。
結構です。。もう十分です。。
お世話になりました。。
有難う御座いました。。
医師は、父の身体の上から降りた。
心電図がピーーと室内に鳴り続けた。。
母が駆け寄った。
お父ちゃん‼️
私が消防署に救急車手配の電話を入れてから、1時間半も経たぬ内のアッという間の出来事だった。
享年64歳。
父は大急ぎであの世へと旅立って逝った。。
実に呆気ない幕切れだった。。
自宅に戻った遺体を葬儀社の人と共に布団に沈めていると、間もなく何処で聞き付けて来たのか、次々と弔問客が訪れた。
父の急逝は、またたく間に町中に広がった。。
私は駆け付けた町内会長さんに言われるまま、お寺に連絡、兄弟姉妹に連絡、本家に親戚に連絡…
やることが山積みとなっていった。
正直、泣いている暇など何処にもなかった。
そうしながらも、私の頭の中は、明日からこの会社を一体どうやって動かしてゆくのか。。何をどうすればいいのか。。全く判らず、深い困惑で一杯だった。
計り知れない心配が、酷く胸を締め付けた。。
味噌醤油醸造会社を継ぐ本家従兄弟の社長が葬儀の段取りを教え、手伝った。
極めて慌ただしい1日が始まった。
事務員を緊急招集して、会社の取り引き先他に向け、決まった通夜葬儀の日程文書を片っ端からFAXさせた。
工場は、既に注文が入っており納品日が決められているから、翌日からの製造は止められない。
不安が再び全身を固まらせた。。
しかし今やることは、先ず無事にこの葬儀を終えることだ。。
やがて姉妹達がやって来て涙の対面。。
親戚も次々と駆けつけた。。
弔問が続々と続く。。
どうにか通夜が終わり、翌日の葬儀では、社長であった父の代わりに、直ぐに決断しなければならない様々な案件が耳打ちされた。
やがて始まった葬式にも、前夜の通夜同様、多勢の方々のご臨席を賜った。
最後は、外に一列に整列した黒い制服制帽姿で正装した多勢の消防隊員に見送られ、厳かで盛大な葬儀の幕切れとなった。
お別れに私が親族一同を代表して、参列の皆様に心からの謝辞を述べた。
それから大きなクラクションが鳴り響き、父を乗せた黒塗りの大きな車はユックリ火葬場へと向かった。
私は運転手さんに頼んで、父が苦労して作り上げてきた、湧楽座でもあった製麺工場の前を、せめてもの慰め、見納めにユックリ通って頂いた。
こうして父は、64歳の生涯を家族との最後の会話も何もなく、終えたのだ。。
翌日から私には、社の代表として様々な決断をし、取り仕切らなければならない立場が待っていた。実に不安で、忙しい日々が始まった。
実際私は何も知らなかった。
会社を経営する方法、社の財務内容、その他一切、本当に私は何も判っていなかったのだ。
教えられたのは、麺を作ること。そして営業して歩くこと。そして原価計算の方法だけだった。
手形、小切手、その違いは?
何より、この会社に実際どれだけの売り上げがあり、どれだけの借金と利益があるのか、私は全く知らずにいた。
言い知れぬ不安が、日に日に全身に満ち満ちていった。
重圧に押しつぶされる思いだった。
しかしやるしか無いのだ。
負けてはならない。
進むしか無いのだ!
そう決めて私は、毎夜遅くまで会社に残り、全ての帳簿を一つ一つ丹念にめくって行った。
現在置かれている会社の全容を、兎に角一日も早く把握する事が第一だった。
その毎夜を、犬のつららが私の側で支えた。
時には深夜に及んで机に座る私に、もう帰ろう。。と言わんばかりにクウ〜〜ンと鼻を鳴らした。
もう少しダョ!待っててネ。。
夜遅くに、月を星を眺めながらつららと共に帰り道を歩き、翌日又一緒に工場へと向かった。
この日々、私は拾った犬のつららに、それは随分慰められ、助けられた。。
又信金の支店長代理のNさんが、毎夜の如く私とつららがいる事務所に顔を出してくれて、抱えるあらゆる疑問と不安に、的確な答えを与えてくれた。
つららとこのNさんの存在が、どれだけ孤独に戦う私を助けた事か、未だ忘れたことはない。。
やがて保険会社から、父の経営者保険に対する入金の金額と日時の知らせがあった。
それを受けて税理士へ連絡、そして遺産相続書作成に着手して戴いた。。
その間に1つ困ったことが起きていた。
それは父の死去が余りに突然だった為に、通夜葬儀に参列出来なかったと言う旧知の方々が、次々と墓前で手を合わせたいと事務所へやってくる事だった。
自宅に母がおりますから、どうぞ自宅の方へ。。
今、訪ねて行ったのですが、ご不在のようで。。それでこちらへ来ました。
生前お父様には大変お世話になり、どうしても仏前で手を合わせたいのですが。。
そんな方々が、日に一組、二組とやって来た。
私はひと時も会社を離れたく無かった。仕事に没頭していたかった。
1日も早く全容を知りたかったのだ。。
しかしその申し出を無碍に断る訳にもゆかず、私は止むなく仕事の手を休め、弔問客を連れて自宅へと向かった。
皆さんは手を合わせた後、父と共に過ごした昔話をしみじみと語り始めた。。そして父の人柄を褒めてくれた。。
それは実に有難い事ではあったが、しかし私には苦痛だった。
大変申し訳無いのだが、そうして話を聞いている時間が、余裕が、その時の私には全く無かったのだ。
時には約束している来客との面談の時間が迫り、やむなく事情を話してお帰りいただく場面が幾度かあった。
誠に申し訳ない事だった。。
そして夜、母と諍いになるのだ。
困るんだよ!
弔問のお客さんが会社に来られてもさ〜。。
頼むから、暫くはずっと家にいて弔問客を迎えてくれよ〜!
何言ってんの、私だってあちこち出かけなきゃならないんだから〜!
どっちが大事なんだよ!!
以来、母とは折り合えない日々が続いて行った。
一ヵ月後、私は現在の会社の仕組み、財務の全容を大凡把握する事が出来た。
間もなく経営者保険金が会社へ入金された。
契約して僅か1年半程での死亡。。
僅かな掛け金で、とても大きな金額のお金が入って来た。
私はこれで安心して経営が出来る。。そう思った。
しかし間もなく税理士により遺産相続内容が纏められて行った。
その内容を聞いて驚いた。
父である社長個人への退職金として税理士はその保険金の大半を、妻である母に当て、節税対策をしたのだ。
今考えればそれは当然の策だったのだが。。私は絶句した。
以後、金融機関は、借入金その他一切の金銭貸借契約書に対し、母の名前を保証人として書き入れることを条件として要求してきた。
そして私はこの世の現実を知るのだ。
35歳になったばかりの新米社長を、何処の誰も全く何も信用していないと言う事を。。
ショックだった。。
しかし今考えれば、それは又当然の事だったのだが。。
私は不満だった。
今日を作ったのは自分じゃないか! 強い自負が満ちていた。
しかし世間では、東京で放蕩三昧して来たあの馬鹿息子が跡を継いで、さていつまで会社が持つのやら。。
そんな風評が、あちこちから聞こえ来ていた。
そんな悔しくも、忙しい日々が続いていた。。
しかし何であれ、ひと月の後、会社の実態を漸く把握して安堵し、ユックリ風呂に浸かる事が出来た。
そして私に、漸く父を失った悲しみが襲ってきた。
父と過ごした日々、変わりゆく時代の中で必死に様々な事業に勤しんでいた後ろ姿、そんな大変な中で、馬鹿息子を大学までやり、挙句に途中で退学した情けないバカ息子を勘当、そして又拾い、なんとか真っ当な今日へと流れ着かせたその日々を、心情を想う時、湯煙の中の私の目から、涙が溢れ続けた。。
64歳。。
まさかこんなに早く逝くとは、自分でも思っていなかっただろう。
そんな父に、私は一体どんな恩返しが出来たのだろう。。
少なくとも、大きな事業転換を計り、その少なからぬ満足の中で最後を迎えさせて上げられる事が出来た、それだけが唯一の親孝行だったと思った。。
そして私は、事業家として真の実力を示す事を、何としても実現するのだと誓った。。
その後も売り上げは順調に伸びていった。
私は更なる将来への希望を抱き、一周忌の後、兼ねてからの懸案であった新工場建設に着手した。。
完成と共に更に人員も又増やした。
特に頼りになる経験と実績を踏まえた幹部候補を数名、当社としては破格の高給で迎え入れた。
未来の発展の為に、優秀な人材が必要だと思ったからだ。
こうして万全の体制を整え、会社は更に破竹の勢いで進んで行ったのだ。
私は火の玉となって、燃えに燃えていた。
売り上げが倍増し、優秀な部下も獲得し、自信に満ち溢れていった。
同時に、父と言う重しが無くなり、若さがもたらす経営者としての傲慢さがドンドン増長して行ったのも事実だ。
月末の札幌出張。
部下を得意先に紹介し、夜はススキノで接待をする日々に明け暮れていた。
節税の為に、接待交際費を使いまくっていた。
兎に角、その頃のススキノは夜中の2時〜3時となっても酔客の波が途絶えず、帰りのTAXIを拾うのにも一苦労した時代だった。
ノボセまくっていた。。
だが世の中は、私の知らない水面下で大きく変わりし始めていた。。
1992年平成四年、私は38歳を迎えていた。
その時、日本が迎えていた絶望的な経済実態を、私は全く把握出来ていなかった。。
崩壊の足音が、静かに近づいていた。。
つづく