すっげー難しい話になるかもしれないから覚悟しろ。

 

科学というのは宗教である。

というと危ない人にしか聞こえないのだが、切り口としては面白いだろう、そういう見出しを人は好むから。

本来もっと丁寧に言うならば、「科学の大衆的受容は宗教的構造を持つ」というのが正しいだろうか。

 

実際の所、大衆にとっての科学の認識や扱い方は宗教の域を出ない。

馬鹿にするとかではなくて、群集に対しては単純な号令をかける事しかできないのが社会性の特徴なのはわかると思う。

"保証されている方法論で保証されている"話や仕組みを理解するというメタ段階を踏むコストを掛ければ本末転倒で機能しなくなるからだ(餅は餅屋と言う様に、他に必要な血液の供給が断たれる)。

 

身近なもので言えば、スマホを扱うのにスマホの中身を知る必要になっても困るだろ。って話だ。

 

科学を使う人たちのほぼ全員は科学についてなんてよくわかっていない。

哲学(それを包括するメタ学問は哲学の分野)によって保証された方法論(それの正しさを保証する為の決められた手順)によって正しさが保証されている科学だが、それを理解させる手順を取った場合、寧ろ科学を機能させるのが非常に困難になる。科学者(正確には科学哲学者)しかいなくなってしまうからだ。

我々は随所で科学を実践・経験するが、科学が何故正しいと保証できるかを説明できる訳ではない。

 

一般的に認知される宗教でも同じだ。

神学によって保証された方法論によって、世界の理の正しさが保証されていたのだが、当然それを非専門家に理解させる訳にもいかなく、非専門家には「神学者や携わる人間がそれを保証している」という権威を与える。

神学者達はその正しさを証明する為に多大な努力を払ってきた。

これを現代の役割では科学に携わる学者達が担っている。

 

科学者が言ってる訳だから正しい。それ以上の理解を必要としない。こういうのを大衆に与える号令という。

この号令は集団認知を誘導する為のイデオロギーだ。

例えばユベル・ノア・ハラリが提唱している概念というのはこういった物で(彼の見るビジョンの詳細はまた違うものとしても)、この集団認知によって瞬時に社会性を変える。

イデオロギーと呼ばれる宗教だ。

 

つまり構造的に見れば宗教と科学はかなり酷似している物で(保証の質は圧倒的に科学が上なので、そう言う批判ではない)、その場合、非専門家による関りや作用は宗教と科学で全く変わりはない訳だ。(つまり素人は触れてるつもりだろうが、超越論(※1)の様に専門家の権威を介しているだけで、けして科学の実体に触れる事はない)

 

※1

ここで言う超越論は現象論(どう表れるかを問う学問)やカントのものじたい(感官を介在しない純粋実体の事)の事を指している。

つまり、「大衆<->科学」という作用ではなくて、「大衆<->専門家<->哲学者<->科学」の図式である。

この哲学者の段階については、アインシュタインやニールス・ボーア等からも見て取れる通り、専門家が兼任しているケースも多々見られる。(逆にドーキンスとかは専門家止まりである)

 

すると、どうだろう。

大衆、一般人、非専門家の振りかざす科学、科学的という言葉って何に準拠しているのだろうか?

そう、その正当性は神父様(科学者)に依拠している訳だ。

その癖全くのお仲間である宗教を馬鹿にしながら、科学を理解しているつもりで盲信する。

そういう固定化されたイデオロギーの変革についても、調べると歴史的な経緯や社会学的要因はあり、例えばホイッグ史観。

科学の時代を迎えた今、以前の時代は如何に今と比べて劣っているか?等と言った恣意的な観点で歴史を語っていくと、必ず宗教VS科学の構造として解釈しようとする訳だ。

魔女狩りや異端審問、天動説やら、医術も相当誤解されているかな(ここ100年くらいの間でも行われていたような瀉血を中世だと思ってる奴とか)。

なんなら数学もおかしい。数学ってどちらかというと元々はプラトン主義、神秘思想寄りで世界の実体ではない。

世界の近似モデルに過ぎない為、自然科学派的には実証的ではない物を盲信するなという批判の歴史もところどころみられる。

有名な合理論と経験論等。

因みに哲学の認知もおかしい為、話の理解が適うかがやや心配である。(※2)余りに広義的で抽象性が強すぎる事情が大半だろうが、とはいえこの問題の解決を試みる事が無かったことも、携わらない物がその意味を理解する必要が無いからだと思う。

 

※2

既に多義的である旨は伝えたが、ここで重視する哲学の定義を簡潔に述べるなら、一つ上のメタで学問する事とする。

例えば科学哲学とは、科学は何をもって成立するのか?を問い、保証する為の学問である。

一般認知として連想する哲学は人生論ポエムだろうが、哲学メタ学問である以上避けられない話題であるだけで、重要な題目としては例外中の例外と再認識するのが手っ取り早い。

 

イデオロギー関連に話を戻すと、日本だと根強いのはオウム真理教事件によって「宗教は犯罪、テロの始まり」という号令が大規模で掛かったのではないだろうか。

愚かではない。人類の社会性を維持する為に滅茶苦茶に賢いシステムがこれなんだ。

ただやはり個人として理性的振る舞いを見失いたくないならば、冷静にこの辺を見つめていきたい。

 

つまり、ただ与えられた号令に過ぎない科学を考えも無しに振りかざすなって事。

それは科学というアイデンティティを護る為の利己的な戦いにしか過ぎない。

そう自分の宗教は正しいと確信する様と何ら変わりない訳だ。

群集としてその行動を私は否定しないのだが、個人として理性的な振る舞いなのかと問われれば、はっきりと否定を突き付けたい。

馬鹿が馬鹿を笑うという勘違い野郎の構図は好きになれない。

 

科学を一番侮辱しているのはそういう利己的な節操のない試み、行いなのではないか?と常々思っている。

 

 

 

追記:

もっとわかりやすく言えば、科学を盲信する非専門家は科学知った気になっているだけなので、非科学的な盲信等の自己正当化に、信頼性の無いなんちゃって科学で権威付けをしてしまうって事。

すると、同様に号令としてしか科学の信頼性を認知していない大多数は当然「科学なら正しい」として信じてしまう、とんでもない弊害が発生する。

例えば似た様なのだとスピリチュアル量子力学。

まあ、手放しに科学の権威を振り回してる奴程、そういうのバカにして悦に浸ってそうだけど、ほんのちょっとパラメータが違っただけでやってる事、考えてる事自体は正直同レベル。

 

非専門家が科学が何たるか?なんて知らなくていいんだけど、ソクラテスではないが、自分はそれを知っていると思い込んでる奴が雑に権威借りて科学の信頼性を失墜させているって話が本題。