SNSを見ると、想像以上に論点の存在を認知出来ない人が多い。それは頭が悪いとかじゃなくて、そもそも普段訓練を行っていない人間の方が圧倒的に大多数の為、対話・議論の仕組み知らないから認知出来ないんじゃないか?と私は疑っている。
どうして自覚を持てないかというと、多くの人が「字が書けるから俺でもシナリオライターが出来る」と自負してしまう傾向がある様に、人と会話が出来る以上、自分が議論のエキスパートである。と自認できるのも確かにごく自然な事である。
だから普通ではあるんだが、やはり無駄な論争に時間を割くのは人生が勿体ないので、余裕がある人はやはり知っておいた方が良い。

 

・議論のフレームワークと「ズレた正論」の衝突
物申しにしろ、クソリプにしろ、何故お互い話がおかしくなるのか?
議論においてはきっかり構造がある。フレームワークは多くの余地や流派があるが適当に。
まず議題があり、論点があり、主張があり、根拠がある。
例えば「自転車の窃盗について」話しているとする。「自転車を盗まれない様に鍵をしよう」というポストがある。これに対して「窃盗者が悪いのに何故、所有者が対処する必要がある訳?」というリプライをする。

リアルでよく見かけるのだと「女性は夜遅く外に出歩かない方が良いよ」→「被害者に原因を転嫁している!公正世界仮説だ!(※1)」というやり取り。
※1:この言葉も男女論でだいぶ歪められてしまったが、そもそも公正世界仮説誤謬ではない。発生した事象のあらゆる原因は本人の行いによるもの。という固定概念から論理の飛躍を行う認知のバグ。(例:迷惑行為を行っていたAさんが病気で若くして亡くなった→悪人だったから早死にした)

この話を切り分けると

「自転車を盗まれないようにするには」 / 「鍵をかけた方がいいのでは?」 / 「窃盗を困難にする為」

「自転車の窃盗の責任は」 / 「犯罪者にある」 / 「窃盗を行うの犯罪者である為」

三つに分割したのは、論点/主張/根拠に分けられている。このうちメタ構造の最上層である論点が別である場合、全く違う話をしている事になる。「自転車を盗まれないようにするには」と「自転車の窃盗の責任は」は全く違う話になる。つまり、一見会話が成立している様に見えて、論駁になっていない。
仮に論点を揃えたとして、「自転車を盗まれないようにするには」「犯罪者を生み出さないようにする」「犯罪者が窃盗を行う為」なのだが、これは最初の主張を否定するものではないので論駁ではない。
そして一番厄介なのが、この手の論理構造は往々にして、それぞれ全て真である事が多い。自分が勝手に設定した論点の理屈を矛盾する方が難しいからだ。それが”正論”と呼ばれる物の正体で、これが更に誤誤解を増長させている。

 

・成立しない反論が生む泥沼
つまり、それぞれ自分、若しくは属するコミュニティの意見が"正論"である以上、自分達は正しい。という証左で自分の意見の正しさに確信を持ってしまう。
論点の異なった主張はどちらも同時に真であり得る。ところが、一方への反論として提示すると、
「自分の言っていることは正しい」→「自分の反論は正しい」→「したがって、相手は間違っている」
という、本来は成立しない推論が生じる。
因みに「感情論で語るな!」なんてのも流行ったけど、感情論も多く議論すべき立派な論点・争点である。ただズラされる論点が感情論であるパターンが目立ったからこういう禁止事項が流行ったんじゃないかなと思う。なんなら、感情の話をしているのに、合理性の話し始めたら相当ヤバい人だろう。

 

・自己同一性の防衛戦とレスバへの変貌
さて、冒頭で既に触れたが、論点が認識できないのは賢くないから。というのも根拠のない人格否定であって、折衷含めて理由は二つあると思う。
まず冒頭で触れたように、普通このような思考フレームワーク乃至、非形式論理学に対する訓練など行う機会が無い事。
次に認知バイアスやアイデンティティ論的な問題だ。自分の考えた作品、推論や論理、思想には自己同一性(転じて、その評価が自分の価値になる)が宿っている。
つまり、「論点がずれている」「会話が成り立っていない」という問題が仮に事実だったとしても、本人がこれを肯定するとなると、自分自身が否定される。という危機を感じる事になる。すると、自己正当化の為の攻撃が発露する。嘘を嘘で塗り固める様に、詭弁で詭弁で塗り固め始める。
レトリックとは恐ろしい物で論理の飛躍、藁人形論法や人格否定等様々な論法を用いれば、表面上はどんな間違いも黒を白と言い張れる。こうやって議論のつもりだった物が、ただの不毛なレスバや炎上へと移り変わる。

 

・知識人の撤退とポストトゥルースの危険性
現在、インターネット社会も過渡期を乗り越え始めると、専門家側にSNS上の訂正を避けるインセンティブが生じ、実際に言及を控える傾向も見られるため、フィルターバブルはますます拡大していると言われる。こういった様相は、そもそも議論の行い方というのを訓練している人が少数派であるSNSで議論する事はリスクしかない。という定説や学びが知識人に浸透してしまった為だ。こうなると、恐らくますます知識格差は拡大し、我々大衆は生きづらさを感じる事になるかもしれない。

一方知識人らは数多くのポストトゥルース、陰謀論に注意しなければならない。インターネット社会において大衆は異常な権力を得て、あらゆる重要な選択権を握っている。にも関わらず、知識人が拗ねて象牙の塔に籠り、我々との対話を試みなければ我々誤った選択をし続ける事になる。
大衆は馬鹿じゃないし、知識人が特段賢い訳ではない。構造や人間の性質の問題がこれらを妨げる要因となっているだけという事を理解し、この構造を打破する構造を考える必要がある。

 

・インフラ(シビックテック)と自衛の議論スキル
日本ではエッセイ以外では余り注目されていない様に思えるが、海外のデジタル論を鑑みるに、世界中がこの問題解決を様々な形で推し進めていると私は思っている。不毛な個人啓蒙(私がここで行ったような)だけではなく、アルゴリズムや対話のインターフェース(構造)そのものをどう設計し直すか、という試みは実際に進んでいるのだ。
それまでに我々が身を守る手段として、構造的な議論スキルを身に付ける事を私は推奨したい。

 

・「陰謀論=高度な合理性(ヒューリスティック)」という正体
また、陰謀論というのも議論に関して理解があると確信してしまう様に多く誤解されている。まず陰謀論は嘘ではないし、間違っている物を指す訳ではないって事。
陰謀論というのは、これも典型的な認知バイアスで可能性が高い物、形式上理屈が通ってしまう、経験則として多く当てはまってしまう。そういった妥当性の考えられる推論を確信する事だ。妥当性がある推論という事は、見方によっては合理的な考え方な訳だ。
だから私は敢えて陰謀論は合理的である。と説明する事がある。
合理的という言葉自体にも誤った認識が多い為、補足すると、合理的とは「正しい」という意味ではなく、与えられた情報や前提から見て、一定の妥当性を持つ推論の事だ。
認知心理学では生存戦略の為に、直感的に合理的な判断を下す。それこそ生まれもってしてゲーム理論の様な妥当性を導き出す超優秀な機能(ヒューリスティック)が備わっている。それが陰謀論を信じ込む一要因というバグになっていて、現代の過剰に複雑な社会構造とのミスマッチにより堕落してしまっている訳だ。
つまりこれも陰謀論者がバカだから起きた。なんて都合の良い話ではない。なんなら陰謀論者を馬鹿にする人間が、自分では気づかずに陰謀論に括れる様な愚かな推論を日常的に行い、確信を繰り返している事は茶飯事である。(しかもトピック・コンテンツに偏りがあるだけで、全く大衆に限った話ではない)
また議論の話と全く同様に、こちらもアイデンティティ論という厄介な問題に移り変わる。陰謀論は真偽の問題ではなく、アイデンティティであって、それが否定される事を最も恐れるのだ。既に説明した様に下手な突っ込みを入れたところで、ますますその社会病理は悪化する。

 

・大衆の限界と「号令」による共通認知の是正
この問題に関しても、知識人たちが構造的な部分にメスを入れる必要があるが、我々がやれることも存在する。それはここで語ったように、陰謀論の正体を予め正しく知っておくことである。
正しく知る。では個人啓蒙のコツについての話に移ろう。
それらを細かく説明したところで、一部の好事家を除き、理解する為のリソースを回す余裕が無いからこそ、我々は大衆なのであり、であれば、単純化して従って欲しい本質を定量として理解する必要がある。(私はこの単純化による共通認知の是正を号令と呼んでいる)
それが先に主張した「陰謀論は合理的」である。

 

・「単純化(ハック)」が言葉を歪めていくメカニズム
例えば実際大抵多くの問題の根源となる「認知バイアス」という言葉自体はかなり流行って浸透しているが、多くの人間はその言葉の意味を誤って認識していたり、理解が乏しく適さない例に対して使う事が多い。これが発生するのは、単純化に失敗して適切に伝えられなかったパターンである為だ。
もっとわかりやすい例だと、スラングにせよ学術用語にせよ難解だったり、複雑な意味の言葉が流行ると必ず間違った意味になる事だ。
それこそ元ポストと論点が合わない自分勝手なリプライをクソリプという定義でもいつの間にか、都合の悪いリプライや攻撃的なリプが多数の認識になっている。元の複雑な意味を大衆という超個体が恣意的に単純化を図ったせいだ。
この記事で既にテーマになった合理的→正しい事(※真偽に関わらず妥当性のある推論)。
論理的→正しい論理である事(※論理学の方法論に適うかどうかとは別の俗語で、それらしく理屈が通っている推論)。
他にも本質→大事な物や真実、真理(※それが欠けたらそれ足りえない物。それを成り立たせる為の要素)。性善説→人の持つ善性を信じる事。(※生まれた時に生得的に持つ善性を失わない様に生きる人生論に関わる話等)
本来の意味を説明するには記事まるまる一つ必要な為に割愛するが、世間のギバー・テイカーの使い方が原典の文脈的におかしいのも気になる(そもそもそんな言葉をわざわざ落とし込もうとする層が俗物根性が強い為だと思われる)。

 

・現実的な対処のための「二つの号令」
そういった様に個人啓蒙の様なものは説明を短くしなければならない。

【議論について】
会話が成立しないのは相手が馬鹿なんじゃなくて、お互い上手く議論できなかっただけ。
→どんな結果だろうと、喧嘩になったらほぼ確実に議論になってないからすぐ打ち切る。
【陰謀について】
陰謀論者は馬鹿ではない。寧ろ賢く合理的な為の失敗である。
→可能性が高い。という推論は全て"陰謀論的"と保留するのが良い。

理由については理解と納得を求めて長々と述べざるを得ないが、啓蒙については無理に全容を理解するよりも、矢印に示したような一文の単純化、号令を持って解決するのが望ましい。これは個人の自衛策にしても、啓蒙にしても非常に役に立つと思われるので実践して欲しい所である。

 

・単純化の危険性とファスト教養化の落とし穴
ただ非常に一つ危険な事がある。じゃあ号令が間違っていたらどうか?
この様な号令は実践的にはその中身はブラックボックスになりがちで、真偽を精査出来ない。啓蒙する人間やその号令を摂取する人間がその前に、間違っていないか、悪い作用が予期されないかを大きく吟味する必要がある。矛盾している様にも見えるが、避けて通れない道であるので注意して欲しいとしか言いようがない残念な話である。

因みにファスト教養ではこの方法を質の悪い人間ハックを行って実践している。ある複雑な話をしている以上、単純化する程誤った知識になるのだが、知識の真偽を問わず、理解できたという疑似体験さえ得られれば脳が非常に喜ぶ為、誰でも理解できるが、その代わり全く適切とは言えない知識説明が多く用意されている。
入門書では質の良い人間ハックとして、わかった気にさせて動機を与えたり、複雑な話をするにあたってイメージしやすい様にする。ある意味で号令と同じような合理性を持って解像度を下げている。勿論入門書を摂取する人間がファスト教養目的で消費した場合、質の悪いファスト教養と同じように効果になってしまう。

 

・結論:定量化を使いこなし、単純さを疑う知性
つまりこの記事にて最後に説明する号令についても「理解が簡単な説明程、正しさから遠い」と言う様な理解が先んじて必要とも思われる。
思考のリソースを節約する為に単純な定量に落とし込む「号令」を使いこなしつつも、その号令すら疑う余白をほんの少しだけ残しておくこと。


この矛盾を抱える知性こそが、過渡期の情報社会で自分を失わずに生き抜く唯一の防壁となれかし。