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甦る少年時代の記憶 実話を元に短編小説に仕上げました。



玉のブー事件

施設警備の一日は、あまりにも長い。

決められた時間に建物内を巡回し、それ以外は守衛室の受付に座っている。

昼間はまだいい。職員や学生、納品業者が出入りする。だが、夜になると人影は途絶え、受付の前には音のない廊下だけが延びている。

聞こえるのは、空調の低いうなりと、壁に掛かった時計の秒針だけだ。

午前二時。

眠ってはいけないと思うほど、まぶたが重くなる。

時計を見る。

二時七分。

かなり長い時間が過ぎたと思って、もう一度見る。

二時八分。

針は壊れているのではないかと思うほど、ゆっくりとしか動かない。朝までは、まだ果てしなく遠かった。

そのとき、受付の向こう側に誰かが立っていることに気づいた。

小学生くらいの少年だった。

こんな真夜中に、どうやって建物へ入ってきたのだろう。

「君、どうしたの」

声をかけても、少年は答えない。

半袖の白いシャツに、紺色の半ズボン。今の子どもが着る服ではない。

どこかで見たことがある。

少年が顔を上げた。

俺だった。

小学六年生の俺が、何かを訴えるように口を動かしている。しかし、声は聞こえない。

次の瞬間、守衛室の照明が消えた。

目の前が白くかすみ、空調の音も時計の音も遠ざかっていく。

気がつくと、俺は広大な空き地の真ん中に立っていた。

昭和四十年代。鉄工所が移転したあとの跡地だ。

周囲には雑草が生い茂り、むき出しの土の上に石や鉄くずが転がっている。近くでは高速道路の橋脚工事が進められ、巨大なコンクリートの塊が並んでいた。

俺の右手には、木刀が握られている。

振り返ると、十歩ほど後ろに同級生が二十人ほど集まっていた。バット、鉄の棒、鎖。皆、武器になりそうなものを手にしている。

その後ろからは、後輩たちが次々と自転車でやって来る。

いつの間にか、三十人を超える集団になっていた。

何だ、これは。

そう思った瞬間、記憶が一気によみがえった。

――玉のブー事件。

始まりは二週間ほど前だった。

弟が墨田区の玉ノ井駅近くで、「玉ノ井」をふざけて「玉のブー」と言って笑っていた。

その声を聞きつけたのが、サイクリング車にまたがった大柄な少年だった。太った体で、同じ小学生とは思えないほど威圧感があった。

少年は弟に因縁をつけた。

弟はすぐに自転車で逃げ出した。少年もあとを追った。俺も追いかけたが、二人を見失った。

弟はどうにか逃げ切り、無事に家へ帰ってきた。

それから一週間ほどたった日のことだ。

空き地で友達と遊んでいると、例の少年が自転車で現れた。

俺を弟と間違えたらしい。

「てめえ、あのときの奴だな」

少年は自転車を降り、俺に近づいてきた。

逃げようにも、背後は工事用のコンクリートで塞がれていた。

俺はその場に立ったまま、少年を見上げた。

少年は俺の胸ぐらをつかむと、左右の頬を平手で何度も打った。

力では、とてもかなわない。

当時の俺は身長百四十センチ、体重三十キロほどだった。少年は百六十センチ近くあり、体重も八十キロほどあったように見えた。

少年が何を言っていたのかは覚えていない。

ただ、手の力が緩んだ瞬間、俺は身を振りほどいて逃げた。

そのまま逃げるのは悔しかったので、少年の自転車を思いきり蹴り倒した。それから自分の自転車に飛び乗り、一気に走った。

身軽な俺に、太った少年は追いつけなかった。

翌日、俺は学校で同級生たちにその話をした。

少年の似顔絵を描くと、別の小学校に友達がいる同級生が、知っているかもしれないと言った。

数日後、少年の正体が判明した。

名前は野瀬。

同じ六年生だった。

相手が分かると、俺は決闘状を書いた。

日時と場所を明記し、野瀬と同じ学校の生徒に託した。

一対一の決闘。

それだけのつもりだった。

ところが話は学校中に広まり、当日になると大勢の見物人が空き地へ集まった。後輩たちまで武器を手にして駆けつけ、いつしか集団同士の喧嘩のようになっていた。

俺は木刀を握りしめ、空き地の向こうを見据えた。

緊張していた。

それなのに、胸の奥には奇妙な高揚感もあった。

しばらくすると、前方から二十台ほどの自転車が一列になって近づいてきた。

「来たぞ!」

誰かが叫んだ。

見物に来ていた同級生たちは、それだけで一斉に逃げ出した。

だが、よく見ると、こちらへ向かっていたのは味方の後輩たちだった。

俺は逃げていく同級生の背中を見ながら、情けない気持ちになった。

戦うのは俺だ。

しかも、あくまで一対一のはずだった。

木刀を握り直して待った。

しかし、野瀬はなかなか現れない。

怖くなって逃げたのか。

そう思っていると、一人の後輩が息を切らして走ってきた。

「向こう、場所を間違えてる!」

野瀬たちは、この空き地ではなく、隅田公園に集まっているという。

俺は後輩に、すぐここへ来るよう伝えてくれと頼もうとした。

そのときだった。

「君たち、そこで何をしているんだ」

振り返ると、警察官が立っていた。

木刀や鉄の棒を持った小学生が三十人以上も集まっている。怪しまれるのは当然だった。

だが、俺には言い訳があった。

念のため、八ミリカメラを持参し、同級生の一人に持たせていたのだ。

大人に見つかったら、映画の撮影をしていると言うつもりだった。

警察官は、俺たち一人ひとりから事情を聞いた。

結局、その日の決闘は行われなかった。

翌日、六年生の男子全員が体育館に集められ、先生たちから厳しい叱責を受けた。

学校新聞にも取り上げられ、事件には名前まで付いた。

「玉のブー事件」

相手が場所を間違えたため、何も起こらずに終わった集団喧嘩未遂。

俺と野瀬の決着も、つかないままだった。

目の前の空き地が、古い映画のスクリーンのように揺れ始めた。

同級生たちの姿が薄くなる。

後輩たちも、自転車も、工事中の橋脚も消えていく。

最後まで残っていた木刀が、俺の手の中から煙のように消えた。

気がつくと、俺は守衛室の椅子に座っていた。

誰もいない受付。

音のない廊下。

空調の低いうなりと、時計の秒針の音。

「何だったんだ、今のは……」

夢にしては、あまりにも鮮明だった。

頬を打たれた痛みも、木刀の重さも、土と草の匂いも残っている。

何日もあの時代にいたような感覚だった。

時計を見る。

二時十一分。

たった三分しかたっていなかった。

やがて夜が明けた。

午前六時を過ぎた頃、空調設備の修理業者が守衛室を訪れた。

六十代くらいだろうか。大柄で太った男だった。頬の肉が垂れ、作業服の腹が大きく張り出している。

男は受付簿に名前を書いた。

俺は何気なく、その文字を見た。

――野瀬。

思わず男の顔を見つめた。

似ている。

あいつなのか。

男は俺の視線に気づくと、にこやかに笑った。

「朝早くから、ご苦労さまです」

丁寧に頭を下げ、工具箱を持って建物の中へ入っていった。

俺は何も言えないまま、その大きな背中を見送った。

時計の針が、静かに一つ進んだ。

そういえば、俺たちの決着はまだついていなかった。

今さら木刀を持ち出すわけにもいかない。

それでも、なぜだろう。

朝まで続く長い勤務が、ほんの少しだけ楽しくなってきた。