久世の深淵
久世はクレーマーを葬るたび、胸の奥から、暗い沼の底に溜まり続けていた澱が一気に噴き出すような解放感を覚えた。
耳に残るのは、これまで浴びてきた罵声、頭を押さえつけられた時の靴底の重み、冷たい床の感触――そのすべてが、逆に彼の刃を鋭く研ぎ澄ませる燃料となっていた。
会社は社員の疲弊など顧みなかった。
「代わりはいくらでもいる」
「クレームは誠意で返せ」
上司の言葉は、もはや人間に向けられたものではなかった。派遣社員である久世にとって、休めば即座に収入が途絶え、耐えなければ解雇が待っている。出口のない迷路に閉じ込められ、次第に彼の心は、二つの顔を持つようになっていった。
昼間は従順なクレーム処理係。
夜は、不条理を葬る「処刑人」。
誰にも理解されず、誰にも救われなかった孤独が、彼の狂気を加速させていった。
逮捕、そして逆説的な「幸福」
やがて、監視カメラと顧客履歴が彼を縛り、久世は連続殺人の容疑者として逮捕された。
手錠をかけられた瞬間、彼の胸に去来したのは恐怖ではなく、妙な安堵だった。
鉄の枷に繋がれ、取調室に座らされても、彼の表情は穏やかだった。
そこには、罵声も怒号も、頭を踏みにじる靴も存在しない。
狭い留置所の硬い寝台であっても、久世にとっては、久しく忘れていた「眠り」を取り戻せる場所だった。
裁判で死刑を求刑されたとき、裁判官に「最後に何か言うことはあるか」と問われ、久世は静かに口を開いた。
「……最高の気分です」
その言葉は、傍聴席にいた誰もが背筋を凍らせたが、久世の瞳には確かな光が宿っていた。
世論の反響
ニュースが流れるや否や、SNSは炎上した。
だがそれは「非難」ではなく、「共感」だった。
「わかる……俺も何度も土下座させられた」
「よくやった。久世さんは俺たちの代弁者だ」
「クレーマーをやっつける英雄」
特に接客業やコールセンター経験者から、久世を擁護する声が溢れかえった。
「お客は神様」という呪いに縛られてきた人々にとって、久世の暴走は、抑え込まれた鬱屈を代弁する「復讐劇」だったのだ。
犯罪者でありながら、彼は一部の人々にとって救世主へと変貌した。
社会の変化
事件後、企業は一斉に「カスタマーハラスメント対策」に動いた。
理不尽な要求を拒否するマニュアルが作られ、従業員を守るガイドラインが整備された。
それまで「サービス精神」として放置されていた暴力が、ようやく「犯罪」として認識され始めたのである。
そして皮肉なことに――久世の逮捕以降、クレーマーは目に見えて減少した。
「もしも、あの久世のような人間に当たったら……」
人々の心に芽生えた恐怖が、社会の空気を変えていた。
終章 ― 歪んだ幸福
久世学の行動は、決して正義ではなかった。
しかし彼の存在は、社会に潜んでいた病巣を抉り出し、誰もが見ないふりをしていた現実を突きつけた。
死刑囚として独房に入れられた久世は、夜ごとに深い眠りに落ちていく。
外の世界では、彼の名は賛否を超え、「ひとつの伝説」となっていた。
「幸福とは何か」
「正義とは誰のためにあるのか」
久世の歩んだ血塗られた道は、その問いを社会に突きつけ続ける。
そして皮肉にも――彼自身にとっては、刑務所こそが生涯で最も安らげる「居場所」だった。




