朝、ベッドから降りようとからだを動かしたら、足がつった。
左足のふくらはぎ。
一時期、ひんぱんに足がつっていたことがあったけれど、
「そういえば、最近、足がつらなくなったなぁ。」
と1~2週間前に思ったばかりだった(-_-;)
若かりし頃と違って、最近の「足がつる」は半端じゃない痛さ。
しかも、痛みというか固まった筋肉の状態が、なかなか治らない。
歩くとまたつりそうな感じがして、歩くのが怖い。
結局、会社を休んでしまった。
ああ、貴重な有休が...
休んで何かをする気にもならず、だらだらとすごし、とりあえずパソコンに向かってみた。
ここ数日、自分の中に書きたいことはいくつもあるのだけれど、書くという行為に至らずにいた。
私にとって書くことは、outputすることで、それによって自分の考えが明瞭になり、もやもやしていたことが消える(ことが多い)。
誰かに向かってではなく、自分のために、自分の中に向かって書いているのだと思うのだが、頭の中だけで思い、考えているのと、書く作業を通すことはまったく違ってくる。
誰かと話をすることもoutputだけれど、それもまた違った質のものになる。
どちらがいい悪いではなく、質の違うものになる、というだけ。
ある日あるときある人に、ある出来事について、
私がこういう選択をしたのは、Aという理由だと思うし、そう公言しているが、実はもっとよく考えると、Bという理由かもしれない。
さらによく考え、みたくない自分の醜い部分まで思いやれば、それはCという理由かもしれない。
本当はCであるのに、Aなんて言っている自分は卑怯だ。
というような話をしたら、
それって、どれかひとつに決めなくちゃいけないの?
と言われた。
一瞬で目が覚めた。
その選択について、AもBもCも理由としてあるのだ。
あるいは、DもEも、Zまでもがあるのかもしれない。
いろんな不安や不満や不平や怒りや落胆や、はたまた希望や期待やら、いろんなことが複雑にからまっているのはあたりまえ。
言葉にするとあまりに当たり前のことだけれど、そのときそう言われたタイミングで、私はなんだかものすごーーーーーく納得した。
それ以来、人間は複雑で矛盾する存在だということを、あたりまえに受け入れられるようになった。
強さも弱さも、醜さも美しさも、同時に持つ存在。
前提、が変わった、というのか...?
そしてまた最近いろいろなことを学んでいく過程で、
「醜さ」も、本当は「醜いと思っている私」、「醜いと思っている私の思考体」がいるだけであって、そんなものは初めから存在すらしていない、ということを知りつつある。
・
・
・