「かたち」はもういらない | 自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

先日、ネットでお買い物をしたものがカナダからエアメールで送られてきたのだが、その封筒に張られていた切手が愛嬌のある顔の熊の絵で、とっても愉快な気分になった。
あんまり気に入ったので、そのおっきな切手を、切り取ってとっておいた。

が、しかし。

そういうのものをきちんと収集しているわけではないので、そのままその辺に置きっぱなしの状況になり、目に留まると楽しいことは楽しいんだが、そのうちどうにも「乱雑さの元凶」、みたいになってきた。散らかりの呼び水、のような(~_~;)
「今月のテーマは捨てる、じゃないかあああ!」と思い至り、じっくりと眺めて、ありがとうとお礼を言って処分した。

さっぱり。

たぶん、これが「捨てる」のこつ、かな、と思った。
なんだか捨てられないものって、ものすごくじゃないけど、なんとなく愛着のあるもの。
それを十分味わって、心の中にしっかりきざんだら、捨てられる。
それはもう私の中にあるから。
あの熊の絵も、しっかり私の中にある。
いつでもどこでも思い出せて、思い出すたび、にんまり楽しい気分になる。



去年、穂高に行ったときのこと。
お気に入りの河原でひとり時間を過ごし、あんまりにも幸せだったので、記念にこの川の石をひとつもらって帰ろうかな、と思った。
せちがらい世界に戻っても、その石に触れれば、この幸せな空気を思い出せるんじゃないか、と思った。

「ここから離れて、私と一緒に帰ってくれるのはどの石だろう。」と思ったら、流れの中にあったひとつの小さな石が目に留まった。
「一緒に帰ってくれるの?」とその石にたずねたら、「いいよ~。どこでも大丈夫。どこだって変わりはないさ。」と言っているような気がした。
そうかー、じゃ、これにしようかな、さて、帰るか、と思ったのだが、なんとなくひっかかりを感じたので、「この石を連れて帰っていいですか?」とそのあたりの空間に、(つまりは、穂高の山の神様なのか?)に聞いてみた。

すると。

まだ、形、が必要なのかい?
かたちは、もう必要ないだろう?

と、こたえがかえってきた。


ああ、そうだ。
もう、「かたち」はいらない。


川の流れの中にその小石を戻し、それを眺める。
それはもう、私の一部だった。
どこにあろうと。
そして、私ももう、この風景の一部、なのだ。
なにもかもひっくるめて全部。
それは私の中にあり、その中に私もある。


川の流れに反射する光
川の底にたたずむその小石
水の冷たさ
空気のにおい
流れの音


何もかも、それは私の中にある。
私はいつでもそれを思い出し、あの場所、あの時間に戻ることが出来る。
人ごみの中を歩いているときでも、通勤電車にゆられているときでも、それは常に私の中にある。
想い出や記憶ではなく、いつでも、常にその瞬間、私はそこにいる。