そもそも、自分の「見る」に対して、なんとなくの違和感を覚えるようになったといおうか、こだわるようになったといおうか、気になるようになったのは、やはりクラニオに出会ってから。
クラニオのセッション中は、クライアントさんに圧迫感を与えないように、充分なスペースを与えられるように、集中しないように、と教わった。
覗き込まず、凝視せず。
ソフトフォーカスで、と。
ぼーっと中空を見ていようと、ぼんやりとした視野の中でクライアントさんをとらえていようとは思っているのだが、ふと気がつけば、じっと見てしまっていたり。
凝視しない!と思えば思うほど、妙にあごが突き出た不自然な体勢で固まってしまっていたり。
アレクサンダー・テクニークのレッスンを始めたのも、もっとラクに力を抜いてじっと座っていられる方法はないのだろうか、と思ったのがきっかけだ。
アレクサンダーのレッスンを受けて、自分の身体感覚が変わった。
というより、初めて自分のからだがわかった、と言った方がいいのかもしれない。
からだとこころのつながりを取り戻した。
まさに「取り戻した」という感覚。
自分を取り戻した。
そんな過程の中で、自分の「見る」の違和感が増していった。
何かが違う、しっくりこない、と。
誰でもみな同じように世界を「見て」いると、無意識のうちに思っていた。
というより、今まではそんなことを考えたことも無かった。
でも、どんなふうに見ているのか、それは実はひとりひとりまったく違うものなのかもしれない。
眼の機能、としての「見る」ではなく、世界とのかかわり方としての「見る」とでもいおうか。
眼は心の窓、などといわれる。
五感の中でも、眼から入ってくる情報量はダントツに多いと思う。
その機能は、自然と自分の在り方にも影響を及ぼすのではないか。
少し注意深く感じてみると、少し意識を変えてみるだけで、世界と自分とのかかわりが変わるような気がする。
きっかりと自分と世界との境界線を持って存在することと、
自分を少し世界に溶け込ませて存在することとの違い。
馬鹿げているかもしれない。
ただの自分の思い込みでしかないのかもしれない。
でも、世界は自分の見ているようにしか見えない、見たいようにしか見えないのだから、その違いがある、と感じる世界に私は生きているのだし、どちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、違いがある、ということをとりあえず今、感じつつある。
コンタクトや眼鏡といった矯正をはずすことによって、「見る」という機能が変われば、自分の感じ方・考え方までもが変わる、変えられる。
あるいは、自分と世界とのかかわり方が今までとは変わってきたから、今までの「見かた」に違和感が出てきた、とも考えられるのか。
対峙せず、孤立せず、戦わず、競わず。
世界に寄り添う
協調していく。
そんな新しい方法があることに「目覚め」つつある、のだとしたら嬉しい...