元々 鬱な自分に今の季節は同調してきて
ある意味 逆に心はその調和という糸を辿り
生命の意を嚙みしめることになる。
けれどそれは決して生きている意味を
見出したということではなく ただ漠然と
己の生命の息吹をいつもよりも感じられるという
ことに留まるというだけのものだ。
どうにもならないことは常に自分の中にあり
他人によっては既にその位置で生きがいを感じ
悲しみの涙でさえ幸せの延長線であると思えたり
することもあるだろう。
ならば妥協が幸せへの近道なのだろうか?
その妥協により幸せというラインを下げることが
遠回りを回避することになるのだろうか?
確かに妥協は必要だ。けれどそれは決して
最善の策とも言えない。
時にはそれが自責の念に駆られるという
未来を自分の中で生み出してしまうかも
知れないからだ。
正解も不正解も自分の中の信念に絡み
結局 他人の真似事ではない自分を感じる
ことが未来での後悔を最小限に抑えることに
繋がると僕は思う。・・・いや 思いたい。