まだ知らないクロサワの世界
2020年 監督/ 黒沢清
それが黒沢清である。
長回しや、引きの画を好む演出家は、日本にも多くいるが、黒沢監督のそれは誰にも似ていない。いや、誰にもそれを真似出来ないと言うべきか。
黒沢清の映像は、終始何かが起こる不穏感に包まれている。その瞬間を見逃すまいと、まばたきすら惜しまれる作品を提供してくれる作家が、世の中にどれ程いるだろうか。
黒沢監督はホラー映画に特化した作家でないが、黒沢監督以上に恐ろしい映像を撮れる演出家は他にいないと私は思っている。
今のところ黒沢監督の最高傑作であろう『CURE』を自宅で鑑賞した時の事はハッキリ覚えている。作品を観終えた時、この世のものとは思えない邪悪な空気が部屋に充満していた。その恐ろしさから逃れようと部屋を飛び出した事がある。その脅威的演出は、後続作品である『カリスマ』や、後にハリウッドでリメイク・シリーズ化された『回路』においても褪せることはなかった。
黒沢監督は、極めて芸術性の高い映像作家である。自身で撮りたい確固たるビジョンが明確にあり、何者にも流される事なく、そのビジョンを具現化する事の出来る希代の映画作家である。
そんな黒沢監督が、NHKのBS放映ドラマとして制作し(劇場版としても全国公開された)、ベネツィア映画祭においては銀獅子賞(最優秀監督賞)を獲った作品が『スパイの妻〈劇場版〉』である。
NHKでの制作、そして蒼井優、高橋一生というスター俳優を主役に据えた企画は、あまりに黒沢作品らしくないと感じた。
それは、敬愛するブライアン・デ・パルマが超大作『アンタッチャブル』『ミッション : インポッシブル』を撮ったり、マーティン・スコセッシがニューヨークを離れ、ハリウッドで映画制作を始めた時の寂しさに通じるものがあった。
そんな理由からしばらく本作の鑑賞を意識的に避けていたが、いざ鑑賞してみればそんな懸念など全く不要であった事がわかる。なんといってもそこは黒沢清なのだから。
本作は主題が明確である。どこに向かうのか分からない恐ろしさが黒沢監督のトレードマークでもあったが、本作では大きな目的を添い遂げようとする夫婦を追うのだからとても分かりやすい。
このタッチは、それまでの黒沢作品と比較すれば、もはや娯楽作品と言っても過言ではない。しかしながら、黒沢監督のファンを自認する私から観ても抜群に面白いのだ。
正体不明の魅力を纏う福原優作。それに翻弄される妻の聡子。そして物語の着地点まで、一気に見せてくれる演出力。黒沢監督は誰もが楽しめるエンタメ作品を提供し、黒沢ファンが先入観で植え付けた細やかな失望感を見事に拭ってくれた。そう、本作でも黒沢清は鮮やかに勝利しているのだ。
【この映画の好きなとこ】
◾️福原優作 (高橋一生)
貿易会社社長としてのカリスマ性と、売国奴としての嫌疑がかかるミステリアスなキャラクター。観客も妻の聡子同様に翻弄されるが、好きならずにいられない。
◾️伏線
自主映画制作が趣味の優作が、妻聡子を主演に撮影する。金庫破りの女性盗賊を演じる聡子に対し、複数回出したNGにはある理由が…。優作の行動には全て意味がある。
◾️帰国
満州から帰国した優作を迎える聡子の熱い抱擁。この時聡子は気づいていないが、出国時にはいなかった女性を連れ歩く文雄に胸騒ぎ。二人に目配せする優作は一体何者??
◾️聡子の悪夢
夫優作に嫌疑を抱く聡子が見た悪夢。夫の留守に幼馴染みが持ち込んだ氷や、夫の陰に潜む女性などが登場する一連のシークエンスは、黒沢監督ならではの悪夢世界。
◾️不正義の上に成り立つ幸福
国賊・売国奴と呼ばれてでも、日本軍が行う悪魔の所業を糾弾すべきと主張する優作。同胞や、家庭の幸福を最優先に考える聡子。このシーンに戦争の矛盾が詰まっている。
◾️拷問
優作と行動を共にした甥の文雄が陸軍憲兵から拷問を受ける。被疑者を背面から捉え、観る者に想像を委ねる演出が効果絶大。別室から漏れる叫び声で恐怖感が倍増になった。
◾️悪魔の手先
東出昌大が陸軍憲兵分隊長を演じる。国に忠誠を誓うあまり、悪魔に魂を売ったかのような不気味さが出色。物静かな口調が更に拍車をかけた。東出は悪役が上手い。
◾️聡子の歓喜
「嬉しいんです。やっとあなたと生きている気がして」。優作への嫌疑が晴れ、共にスパイ活動を始める聡子がいじらしい。飛躍的に逞しくなる聡子には優作が舌を巻くことも。
◾️結婚記念日
結婚記念日の旅行に出かける福原夫妻を見送る女中の駒子。記念旅行とは方便で、帰ってこないであろう事に勘づいてる駒子の細やかな描写がいじらしく素晴らしい。
◾️密航
亡命を決行する聡子の、嫌な予感しかしない密航シークエンス。船の薄暗い地下で箱に篭る二週間だが、出航間も無く陸軍憲兵が押し寄せ、心臓破りのサスペンスが展開される。
◾️証拠のフィルム
日本軍の人体実験を盗撮したフィルムを陸軍憲兵に差し出す聡子。映写が始まり、全て優作の思惑通りに進んでいた事を悟った聡子。聡子は利用されたのか??それとも…
◾️面会
「私は一切狂ってはおりません。それはつまり私が狂っているという事なんです、きっとこの国では」。戦争による混沌とした政治情勢と理不尽さが集約された聡子の言葉。
◾️結末 ※ネタバレ
空襲を免れ海岸を泣きながら歩く聡子。悲痛なエンディングと思わせながら、二人のその後を僅か三つのテロップで描写している。映像にしたら安易と思われる場面をさりげなく、しかも最後の最後に提示した事で、サプライズ的意味合いが含まれたハッピーエンドになっている。
よく知っているようで、実はまるで黒沢清という映画作家を知らなかった事が分かりました。
本作を含め、黒沢監督近作の非ホラー・スリラー作品には興味が持てなかった為、これまで鑑賞を見送っていたのです。
それが本作『スパイの妻〈劇場版〉』があまりに面白かった為、土日の全てを捧げ、黒沢監督作品をざっと振り返ってみたのです。その数なんと11作品!この本数はつまり、やっぱり黒沢作品はあまりに面白く、見始めたら止まらない事を物語っているのです!
そして、更に驚いたのは、非ホラー・スリラー作品のなんと面白いことか!
特に好きだった黒沢監督作品といえば、前述の『CURE』『回路』や『ドッペルゲンガー』をこれまで挙げて来ましたが、ヤバいなあ。ランキングが変わりそうです。
先週土日に鑑賞した黒沢監督作品は、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』『カリスマ』『回路』『アカルイミライ』『ドッペルゲンガー』『リアル〜完全なる首長竜の日〜』『岸辺の旅』『散歩する侵略者』『予兆 散歩する侵略者』『旅のおわり 世界のはじまり』『スパイの妻〈劇場版〉』。それ以降の平日に『大いなる幻影』『降霊 KOUREI』『蟲たちの家』『DOOR Ⅲ』『Seventh Code』。
なんと一週間で16本の黒沢作品に浸りました。しあわせ〜。
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