日本の陽明学の大家といえば、近江聖人といわれた中江藤樹先生ですね。

戦前に修身の教育を受けられた高齢者のほとんどの人が、先生のことをたいへんよく知っておられる。


藤樹先生は、滋賀県高島市の安曇川小川村というところでお生れになった。

小川村では貧しい生活をおくられたが、お祖父さんは武士であり、先生は武士の気位があった。お祖父さんに連れられ、鳥取の米子に、その後愛媛県の大洲に移り住まれた。


先生は、米子や大洲で、孟子の「大学」など儒教の学問に熱心に取り組まれ、朱子学を学ばれた。だが朱子学に疑問を感じ、そして陽明学にいきつかれた。

これが英断であったのでしょう。


先生の弟子に熊沢蕃山という人がおられるが、この方は、先生の教えを受け、岡山備前藩で重き役職についた。朱子学が全盛の江戸幕府で、陽明学を唱えるのはたいへんリスクがあった。事実、朱子学の林羅山から辛辣は非難を浴びせられましたからね。その意味で萬山はすごい。

というか、岡山藩主が偉かった。


その後、藤樹先生に連なる熊沢先生をはじめとする弟子たちによって広められた陽明学の思想は、それから大塩平八郎から吉田松陰、佐久間象山、さらに藤田東湖、西郷隆盛などの幕末に活躍した精神的な支柱となったのですね。

幕末から明治維新、そして日本の近代化。その源には確かに藤樹先生の陽明学の思想がありました。

陽明学は「知行合一」をモットーとしています。つまり人には誰しも「良知」を持っている。その良知に達すればすぐさまこれを実行に移すべきと行動重視の思想でありますね


日本は、この陽明学によって花を咲かせたのです。


そこが、大義名分、空理空論の朱子学を国教とした李氏朝鮮と大きな違いであったのですね。


中江藤樹先生は、まさに日本の近代化の礎を作られた偉大な人物なのですよ。