口述筆記とAI(人工知能)

人間にとって、もっとも自然な情報の伝達方式は、「音」ですね。動物の進化の過程において、音声こそがいちばん効率的なコミュニケーションの手段だった。自分の脳にある思考を自分の手を使い文章化するよりも、自分の口で話をして他の者に筆記させるほうが楽ですからね。


カエサルは部下に馬上で『ガリア戦記』を口述筆記させたし、ドストエフスキーは、妻に口述筆記させて小説を書いた。また滝沢馬琴の作品は、晩年長男の嫁に口述筆記させていたし、福沢諭吉もまた、自ら経営する新聞社の記者に口述筆記させあの有名な「福翁自伝」が生まれた。


ところで、これまでコンピューターは人間の言葉が理解できなかったため、紙とペン、あるいはキーボード入力という方法に頼らざるを得なかった。文字と音声とは融合することができなかったのだ。


その状況が今、大きく変わろうとしています。人間がもっとも自然な方法で機械に入力できるようになったという意味で、AI(人工知能)の音声入力や音声認識というのは極めて画期的は技術革新なのです。おそらくこの技術はこれからどんどん進化を続け、私たちが展開する口述自伝の制作が一層簡便になり、大幅に納期が短縮され、劇的なコストの削減に寄与していくでしょうね。


そうなると、功成り名を遂げた人だけでなく、名もなきごく普通の人たちが自分の生きざまやそのライフヒストリー、人生の物語などを文章に著し、それを世に送り出したり、後世に伝えていくということが当たり前のようになっていくに違いありませんね。

今はまさに「自伝文化」の黎明期にあると言ってもいいと思います。

そうです、日本の口述自伝を文化にするんです。これこそが私たちの使命であると考えています。
 

 

五木寛之の「回想のすすめ」

回想のすすめ

作家五木寛之さんは、自身が高齢になって考えたことや行動についていろんな視点で書き著し、何冊か本を出していますね。さすが若かりし頃読んで感動した名作「青春の門」で一世風靡したベストセラー作家、その筆はいささかも衰えることはない。その中に“「回想」のすすめ”というエッセイがあったので少し紹介しますね。
 

★★★


ある程度、高齢になってくると、誰でも気持ちが沈むことがある。初老期のうつ的な病的なものもありますが、そうでなかったとしても、同世代の友人や知人がどんどん欠けていったりすると、なんとなく心寂しくなるものです。


(中略)


最近は、未来を考えるより、むしろ昔を振り返ることが大事だと思っています。記憶の抽斗(ひきだし)を開けて回想をし、繰り返し記憶を確かめるたびに、デイテールが鮮やかになってくる。それが、日々の楽しみになるのです。


過去を振り返るのは後ろ向きだ、退廃的だと批判する人がいます。「高齢になっても前向きに生きよ、それが元気の秘訣だ」という意見も、少なくありません。しかし高齢者の場合、前を向いたら、“死”しかありません。それよりは、あの時はよかった、幸せだった、楽しかった、面白かったと、さまざまなことを回想し、なぞっていったほうがいい。


誰もが回想の抽斗をたくさん持っているはずです。しかし、しょっちゅう開けて出していないと、錆びついてしまい出てこなくなる。だから、同じ抽斗を何度も開けておいたほうがいい。


(中略)


「回想」は、医療の現場でも取り入れられています。(中略)回想することで脳が活性化され、回想を語るとコミュニケーション力にも刺激を与えるからでしょう。また、蘇った思い出が楽しいものであればあるほど、心理的な効果が高いと言われています。自分の人生、捨てたものではないと、肯定的な気持ちになるからです。


回想は投資信託と違って、元本を割り込む心配もありません。しかも元手は自分の頭の中にあるわけですから、無限に存在している。これほど安心で、しかも効果が期待できる財産は、そうそうありません。


書くのが好きな人は自分史を書くのもいいかもしれませんが、誰もができることではありません。ですから無理せず、頭の中で記憶を蘇らせるだけでいいのです。


高齢になり、なんとなく厭世的になって生きているのがいやだなと思う原因は、大きくふたつあります。ひとつは人間不信。例えば必死で働いて家族を守ってきたのに、高齢になったとたん邪慳(じゃけん)にされる。子どもたちは遺産のことしか考えていないのではないか。定年になったとたん、誰も見向きしてくれないーーそんな、いささか被害妄想的な思いにとらわれて索漠とした気持ちになることは、誰しもあると思います。


一方で自分はどうなのかと我が身を振り返ると、今度は自分が嫌になる。鏡を見ると老いた姿が移っている。あちこち具合が悪くて体も思うように動かないし、前向きな気持ちにもなれない。家族のお荷物になっているのではないか、等々。


人間不信と自己嫌悪は、人が明るく生きていく上で大きな障害になります。それを、どういうふうに手放すか。私はこれも、回想の力によって乗り越えられと考えています。


世の中は金と欲と権力の巷だということは分かっているけれど、それでもなお、、人間は面白い、ささなかな人の営みというのは、なんともいえない味わいがある。そんなじわーっとした思いによって、人間不信と自己嫌悪という二つの病が癒されいく感じがある。


だから私は、気分が滅入ったときにはたくさんある記憶の抽斗を開けて、思い出を引っ張りだすようにしています。そうやって回想し咀嚼していうちに、立ち直る自分がいる。最終的には、人間とは愛すべきものだというあたたかい気持ちが戻ってきます。


誰でも生きていれば、つらいことや、嫌なことは山ほどあります。しかしそういう記憶は、抽斗の中にしまったままにしておいたほうがいい。落ち込んでいる時、弱っている時は、なんともいえないバカバカしい話が逆に力になることがある。賢人の格言より、思想家の名言より、生活の中でどうでもいいような些細な記憶のほうが、案外自分を癒してくれるのです。


しかも、歳を重ねれば重ねるほど、長年生きた分、そうした思い出の数は増えていくはずです。いわば頭の中に、無限の宝の山を抱えているようなもの。そうした日常生活の中でちょっとした出会いや思い出を記憶のノートにしっかり記しておいて、ときどき引き出して、発掘し発見するのは、下山の時期を豊かにするためのいい処方箋です。

そのためにも、「回想力」をしっかり育てたいものです。


★★★


さすが、五木寛之さん。

 

 日本の将来にとっての最大の危機は、言うまでもなく少子高齢化、そして人口の減少ですね。これを克服する方法は、基本的には出生率の向上でしょうが、そもそも若い女性の数が減っているので、出生率が今の1.4から2.0になったとしても根本的な解決には至らない。

 

 

幾つかの方法を組み合わせて、この危機に対処していくしかないですね。

その方法の一つが“移民政策”でしょう。

 

今、アメリカもヨーロッパ先進国も移民問題で国が揺れ動いていますね。トランプ次期大統領は不当移民に対して厳しい姿勢を打ち出しているし、ヨーロッパでは国家主義的な政党が勢いをつけ、主に中東から移民や難民の受け入れに反対しています。

 

一方、日本はどうかというと、これまで移民問題について真剣に議論してこなかったの実際のところで、人口が減ることはそれほど大きな問題にならないという、楽観的な主張や意見が政治家にも一般国民にもあったように思いますね。

ここに、2035年の人口動態を見てみましょう。これは、国立社会保険・人口問題研究所と資料を基にしています。

2035年には
(1)全国の自治体の5分の1以上が人口5000人未満になる。

(2)2005年に比べて人口が2割以上減る自治体が6割を超える。

(3)75歳以上の人口が25%以上を占める自治体が5割を超える。
(4)2005年に比べて75歳以上人口が2割以上になる自治体は、ほぼ4分の1に達する。

(5)高齢人口(65歳以上)割合が40%以上の自治体が40%を超える。

(6)2005年に比べて、高齢人口が5割以上増える自治体がほぼ4分の1に達する。
(7)年少人口(0歳~14歳)割合が、10%未満の自治体が3分の2を超える。

(8)2005年に比べて生産年齢(15歳~64歳)人口が4割以上減る自治体が4割を超える。

(9)生産年齢人口が5割未満しかいない自治体が、3分の1を超える。

 

なんかびっくりする数字です。

 

これまで、移民政策研究所というところで移民問題について、いろいろ満できましたが、これらを政策を推進するには、おそらく10年はかかるでしょう。実際もっと早い段階から議論すべきでしたが、今さら言っても仕方がない。今まさに国挙げて議論すべき時だと思いますね。

 


 

「平安前期までの日本は、ほとんど中国文化の取り入れに明け暮れた。その中で本当に創造的な仕事と言えるのは、仮名の発明くらいである。」と言ったのは、歴史学者の東野治之さんです。(『木簡が語る日本の古代』)
 

自らの言葉を記録するための文字を創り出すことによって日本文化が生まれ、統一された国を形成してきたと言っても言い過ぎではないと思います。かなが発明されていなかったら日本という文化国家は、おそらくなかったに違いありません。


日本語とは、言葉であると同時に文字。中国語は言葉(漢語)と文字(漢文)がはっきりと別れているという考え方をしますが、日本語は、言葉を指す時も「日本語」であり、文字を指す時も「日本文字」と言わずに「日本語」と言いますね。つまり日本語は言葉と文字が一体になっているのです。


日本語は漢字とかなが混ざり合っています。デコボコが激しい。例えば、「難しい」という字を書くと、「難」は18画もあるのに、「しい」は1画と2画です。とてもアンバランスですが、この混合文こそが日本語の最大の特徴です。


漢字は、概念とか固有名詞などに使われています。漢字は漢字そのものに意味があるのでわかりやすい。例えば「水素」という漢字は「すいそ」とかなで書くより「水素」つまり「水の素」という意味を持つ漢字を使ったほうが理解がしやすいですよね。また「及び」という文字は漢字でもいいけれど、「および」とかなで書いてもいい。別に決まりや基準があるわけではありません。とても自由なのです。


かなは、中国的な権威とか神秘性を追求して作られたという漢字とは、そもそも違う方向を目指してきたように思います。それが一行に漢字、ひらがな、カタカナと順不同に並ぶ。「美しさ」という視点からすると決して美しくはないけれど、日本語の本質である「わかりやすさの追求」という目的からすれば、とても形が良くて実に美しいですね。


そこが、ハングルのみで漢字を捨ててしまった今の韓国との大きな違いですね。なぜ漢字を使い混合文としてきた従来の韓国文化を継承しないのか、大いに疑問に思っています。

「日本語は『てにをは』を結ぶ文章で、語尾はどうでもいいような、ナマコみたいな、軟体動物みたいな言語」と言ったのは、かの司馬遼太郎さんです。
「日本語はおもしろい」
「日本語はおもしろいよな」
「日本語はおもしろいといえなくもないね」 とか、

とにかく、いくらでも言葉を曲げたり、真っ直ぐにしたり、最後にひとつふたつ、余計なものを付け加えてもいい。同じ意味のことをいくらでも変えられますね。それに男性が言った場合と女性が言った場合とでは、その雰囲気ががらりと変わります。
「日本語はおもしろいわ」
「日本語はおもしろいわよ」
「日本語はおもしろいわよね」


また、男性であっても、職業によって異なる表現ができるし、同じ意味の言葉でも語尾だけ変えれば話し手の年齢もわかりますね。言葉の表現の仕方でその人が荒っぽいかやさしいかといった性格もわかるし、また方言を表すことによって出身地がどこかもわかります。


フランス文学者の多田道太郎さんは、「結局われわれの文化の体系というのは、いちばん下にひらがな、その上に漢字が乗っかって、その上にカタカナというふうに、重層的になっているのです。だから日本は、ひらがなを発明して以来、いつの文化でも重層的になっていったようです」と言います。


見方を変えれば、そもそも日本文化が重層的であるからこそ日本人は、ひらがなもカタカナも漢字も、同一文に使うことに抵抗を感じないし、そういう日本語が生まれたのだと言うこともできるのです。


繰り返しますが、「日本文化とはかな文化である」ことは論を俟ちません。この発明・創出がなければ日本という国はなかったと言ってもいい。また今日の近代化や工業化に至る過程において多くの困難を伴ったに違いありません。


その意味で、私は“かな”に心から感謝をしたいのです。


 



私たち人間の創造力の基盤は言語ですね。人間は言語で思考し言語でその考えを発信していきます。 聖書の「ヨハネの福音書(1-1)」でも、“初めにことばがあった。ことばは神とともにあった”と謳っていますね。
 

あらゆるものが言葉を通して伝えられます。どんなに進んだ社会でも人間の創造力は常に、言語運用能力から生まれます。その基盤となるのは言うまでもなく第一言語である日本語ですよね。


言語には、「読む」「書く」「聞く」「話す」があります。この中で「書く」というのはもっとも技能の高いレベルです。「話す」というのは自然に身につくものですが、飽きさせずに話し続けるにはそれ相応の技術が必要です。「聞く」という技能は、「聞き上手」という言葉があるように上手下手がはっきり表れ、インタビューやカウンセラーのように聞くことを専門にしている職業があるくらい技術が要ります。


そんな中で「読む」というのは、漢字と語彙がわかれば自然に読めるので、技能や訓練がさほど必要でないと思われていますね。『「読む」のに技術が必要か』という命題に答えているのが、国語学者の石黒圭さんで、ここからは石黒さんの本を参考にしながら、「読む」技術について、また記憶との関係性について考えていきたいと思います。


石黒さんは、『「読む」という行為には、目的に応じた数多くの種類がある』と言います。声に出して読む「音読」、声に出さずに読む「黙読」、早く読んで要点をつかむ「速読」、ゆっくり読んで理解する「精読」があります。「速読」と「精読」の中間にあるのが「平読」、あるいは味わいながら読むという意味で「味読」とも呼んでいます。 この中で「精読」についてお話していきます。


石黒さんは、本を読む時には、読む目的に基づいたストラテジー(戦略、あるいは作戦計画)があると言います。「精読」する場合に、3つのストラテジー、すなわち「行間ストラテジー」「解釈ストラテジー」そして「記憶ストラテジー」。


「行間ストラテジー」とは、書かれている内容をヒントにその行間を背景知識から推論していく技術です。いわゆる“行間を読む”行為のことですね。「解釈ストラテジー」とは、さらに踏み込んで多様な解釈を生み出す技術で、読み手によって文章に新たな価値を付与していきます。


一方、「記憶ストラテジー」とは、本の中の情報を脳内に固定・貯蔵させる技術です。そのためには次のような行いが大切です。 ①繰り返し読んで文章の構造を把握する。 ②音読して文字と意味、音と意味のつながりを知る。 ③自分の言葉に置き換えて理解する。 ④要約によってアウトラインを押さえる。⑤文章との対話を心がけ内容を関連付けて理解する。


特にこの「記憶ストラテジー」は重要なポイントです。良書は心して熟読し、脳に記憶して残していきたいものです。