セウォル号の沈没事故が起きてから、1ヶ月近くが過ぎようとしています。


韓国全土を揺るがした史上最悪の海洋事故は、死亡者302名という大惨事をもたらし、今も尚、様々な新しい報道が湧き出てきて、国民はそのショックから立ち直ることができず、気持ちを落ち着かせるには相当の時間を要すると思います。


これまでこのブログでも紹介したように、韓国人の国民性やひとりひとりのものの考え方や価値観を根底から変えていかなければならず、決して「のど元過ぎれば熱さを忘れる」になってはいけない。


ところで、私がもしセウォル号の船長、或いは乗組員だとしたら、果たしてどんな行動を取るか考えてみました。


(1)この船長や乗組員と同じように真っ先に逃げる

(2)乗船した人を救助するものの、船が沈みかけたら海に飛び込む

(3)最後の最後まで救助活動し、船と運命を共にする


本来なら船長の使命は(3)ですね。タイタニック号を見ればそれがわかります。最終的な責任は船長にあるからです。


しかし、一般の乗組員なら、おそらく(2)でしょう。心情的には船長と同じような行動を取る人はいるでしょうが、私は何とか助かるべきだと思います。


従って、今回のような(1)は絶対あり得ない。とはいっても、いざ私がその立場にいたとすれば、やはり助かりたい一心で(1)の行動を取ることになるかもしれません。率直に言ってわかりません。


何事においても、外から見るのと実際に体験するのとでは、天地の違いがあります。評論家風に、「そんな時俺なら絶対(3)の行動を取る」と豪語している人間が、いざとなれば卑怯にも真っ先に逃げることは、これまで世の中でたくさんありましたし、人間の生存の欲求から、これからもたくさん出てくるでしょうね。


常日頃から、“死”について考えておくべきですね。確固たる“死生観”を持たないといざとなった時の行動は(1)になるのです。


これもまた、私が自分なりにその確固たる“死生観”を持っていると言えども、平時ではなく非常時になった時、これがどう作用するのか、自分でもその行動はわからない。


“死”や“死生観”について、深い深い思索やそれに関連する体験などを基に脳の無意識の部分に落とし込んでいかなければ、何の意味もなさない。本を読んで、或いは人から聞いて浅はかにわかったようなつもりでいることがもっとも恐ろしいのです。