来年は、朝鮮半島は日本に統治されてからちょうど100年目を迎えるたいへん記念すべき年です。


現在の北朝鮮にも似た政治社会状態であった当時の朝鮮半島(国名が「李氏朝鮮」から「大韓帝国」変わっていきました)には、自国の政権を見限って日本に救いや協力を求める人々がかなりの数いました。


「李氏朝鮮」は長期間にわたり、中央集権体制を維持するために厳しい身分制度をしいていました。「王様」の下に「王族」、貴族階級を「両班」、技術者や行政実務者などを「中人」、農民などを「常人」、商人・仏教僧・芸人・奴婢などを「賎民」と呼んでいました。


ちなみに私の先祖は、祖父や父の話を聞き、故郷でのおじさん(父の従兄弟)の生活を見るところによると明らかに「常人」ですね。


日本による朝鮮植民地化によって、これら身分制度が完全に崩れていったのです。特に、特に「中人」階級は、李氏時代に身分が相当抑圧されていたため積極的に日本の植民地支配を後押ししたことが伝わっています。



「中人」は、代々郡や県の行政実務を担当した者が多いため、文字を読み書きや算盤が出来る専門的な知識人が多かったのですが、当時、社会的進出には厳然とした限界があったためです。彼らは、「両班」から甚だしい差別を受けていました。


日本が米国によって開国させられたように、1876年日本によって朝鮮は開国させられ、新しい時代の幕が上がりましたが、「中人」は他のいかなる階層よりもいちはやくそれに適応したのです。


元来、実務と情報に明るかった彼らですから、商人や地主に変身することによって経済的に成功した人が多かったのです。それ以後、植民地時代の農村社会はかれら「中人」出身の振興地主によって支配されてきたのです。


その反面、「両班」身分で時代の変化にうまく適応できた者は少なかったのです。「中人」にとって異民族が支配する植民地時代は天の道理が崩れた乱世のようなものだったのですね。


ですから、「中人」は、その成功をもたらした日本の植民地支配におおむね協力的でした。彼らは、日本の統治の象徴であった朝鮮総督府の官界に進出したり、各種各級の協議会委員として活躍したのです。


「中人」で構成している振興地主たちは多くの場合、自分らの子供を日本に留学させました。日本に行った彼らの子供たちは東アジアの新しい中心である日本の新文明に圧倒される中、やがて日本の協力者として育っていったのです。

と同時に、彼らは、民族意識を自覚することによって民族の将来を思い描き、それを実践する民族的な知識人として変わっていった人々も多く輩出したのです。


日本だけでなく当時の欧米列強は、帝国主義を標榜し世界各地に植民地を創ってきました。帝国主義支配の条件とは、支配される国にとっては新しい秩序だったのですね。


帝国主義は進化の化身であり、新しい文明のメッセンジャーだったに違いありません。そして植民地の人々がその宣伝に同意させられ、その結果徐々に帝国主義の協力者に変わっていくのです。


逆に、協力者が背をむけるときに、帝国主義は危機に陥るといえます。だから、帝国主義の歴史とは同時に協力者の歴史でもあったのです。朝鮮半島の歴史もまた、その例外ではなかったのですね。


国や民族だけが歴史の主体ではありません。
歴史における究極の主体は個別の人間です。それを知った上で、植民地時代に生きた人々の生きざまを中心において、歴史を理解し認識すべきだと思いますね。


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