私が、韓国の高麗大学校という大学に留学していたのは、1976年~1981朴正煕(パクチョンヒ)政権から、光州事件を経て、全斗煥(チョントゥファン)政権という、いわゆる軍政が敷かれている時代でしたね。


朴正煕は、典型的なアジア的開発独裁型の大統領」でした。


韓国は、1945年に日本の植民地から解放されましたが国内が混乱し、1948年南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。1950年に朝鮮動乱が勃発し3年後に休戦になりましたが、当時韓国は世界の最貧国で、人々の暮らしは悲惨なものでした。19604月に不正選挙を糾弾した人々によって、李ラインで有名な李承晩(イスンマン)政権が倒れました。そして、その後新たな政権が発足したのですが、政治のリーダーシップがなく、不正はなくならず、経済は低調で、国民は塗炭の苦しみを免れることはできなかったのでした。


そんな国の状態を憂いた朴正煕をリーダーとする若い軍人たちが、19615月に「軍事クデーター」を起こし、政権を掌握したのです。は、国民を貧乏から救うためには、まず産業を興さなければならないと考え、日本に援助と協力を求めたのでした。


朴正は、日本が朝鮮半島を統治している時代、韓国の慶尚北道の亀尾(ちなみに現在の亀尾市と私が住む大津市とは姉妹都市)という村で、貧農の子として生まれました。地元の師範学校から満州軍事官学校、日本陸軍士官学校に進学し、ひじょうに優秀な成績で卒業しました。そして、解放後は韓国軍の中軸の仕官として朝鮮動乱を戦ってきたのです。


当時の軍人の多くが、かつての日本の軍隊に所属していました。そのため日本の歴史もたいへん良く知っており、彼は、特に幕末に活躍した西郷隆盛を尊敬していたようです。

軍事クデーターは、まさに明治維新を見習って起こした革命だったのですね。

その後、日韓条約を締結し、植民地時代の補償など有償無償で得たお金で、浦項製鉄所をはじめ重化学工業の施設を建設したり、国内のインフラを整備するなど、今日の韓国経済の礎を築いてきたのですね。


国内では、独裁型の政治を行なっていたため、学生からの反発も強く、私も反政府デモによく参加し催涙弾を浴びていましたが。

そして、朴正煕は19791026日(ちなみに、この日は私の家内の誕生日、あまり関係ありませんが)、側近に暗殺され、61歳の波乱の生涯を閉じたのです。


彼は、本当に日本を高く評価していましたね。漢江の奇跡は、日本の近代資本主義や経済システムを参考としていましたし、朝鮮総督府時代に働いていた優秀な官僚の能力や、日本企業で働いていた者や中小企業に従事し、後に「財閥」を形成した経済人のベンチャー精神をうまく導き出したのです。


彼は、たいへん清廉な政治家でした。独裁者というイメージがありますが、日本の武士のような高潔で公私の区別をしっかり保つ、リーダーとして稀有な存在でした。


朴正煕が、あの時代の大統領であったからこそ、経済力で世界の10指に入るまでに成長した現在の韓国があるのだといっても過言ではないと思いますね。


「私の行いは、歴史が評価する」と生前、朴正煕は言っていました。まさに、現在韓国での彼の評価はたいへん高いものがあります。
奥さんがとても立派な方でした。その奥さんを亡くしてから、諫言する者がおらず独裁がひどくなり、後の悲劇を生んだと言われていますが。
私は、日本の武士道を尊び、強い矜持を持って国を導いた朴正煕元大統領に深い敬意を表しています。


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