私の日課は、基本として、早朝からお寺で「法華経」を読誦(どくじゅ)することから始まり、そして、夜は自宅で同じ行いをして寝ることです。


日蓮大聖人(以下大聖人)は、仏教における最高の経典といわれるその「法華経」を、鎌倉の町の路地にひとり立ち、「辻説法」という方法で人々に広めようとしました。全ての「大事」はまずひとりから始まるのですね


私は、関東へ出張の際、鎌倉に立ち寄ることがありますが、鶴岡八幡宮から歩いて10分ほど下ったところに、大聖人が説法していた場所があります。現在は、閑静な住宅に囲まれていますが。


「辻説法」では、石を投げられたり、罵倒されたり。それでも大聖人は毅然と自らの宗教思想を人々に訴え続けたのです。


大聖人は今から750年前、39歳のときに、“旅客来たりて嘆いて曰く”という有名な書き出しから始まる「立正安国論」を著わし、当時鎌倉幕府の執権であった北条時頼に提出しました。これを「国家諫暁」(権力者への助言)と言うのですが。


当時、自然災害や飢饉などが日本全土を覆い、内乱が起たり蒙古の侵略などが間近に迫っていることから、このまま放置すればたいへんなことになるとして、日本や鎌倉幕府が蒙る国家リスクを防ぎ、国民が安泰になるためには「法華経」を幕府の信仰の中心にすべきと主張したのです。


しかし、このことはたちまち内外に伝わり、激怒した他宗派の宗徒から迫害を受たり、鎌倉幕府から政治批判と見なされて、「伊豆流罪」となったのですね。


その後も大聖人は「国家諫暁」を続け、幕府や他宗は看過できないとして、今度は龍ノ口という刑場で処刑される寸前までいったのですが、執行の際、江ノ島の方から光のような物によって処刑人の目がくらみ、不吉として処刑は中止され、「佐渡流罪」となったのです。


50歳のときに厳冬の佐渡での酷い生活が始まるのですが、大聖人のこの佐渡流罪が実は歴史的にたいへんな重みを持つんですね。


どの時代でも人は、不遇や失意、逆境を克服することにより、精神力が鍛えられ、潜在的な意識が顕在化し、たくましい行動力を発揮します大聖人はまさにこの時期に、後世に残る「開目抄」や「観心本尊抄」などといった名著を書き残しているのですよ。


当時、佐渡への島流しというのはほとんど死を意味していました。しかし、大聖人は佐渡でむしろ信者を増やして、2年後、威風堂々と鎌倉へ帰ってきたのです。これには鎌倉の人々もびっくりしたらしいのです。


蒙古が侵略が日に日に迫っており、鎌倉幕府は大聖人に対して、「鶴岡八幡宮の近くの一等地に寺を寄贈するので、そこで蒙古との戦いに勝つよう祈祷してほしい」と提案しましたが、大聖人は自らの意にそぐわず、これをきっぱり断って静岡の辺境地、身延へ向かったのでした。


大聖人は、それまで苦労に苦労を重ね、幾度も死に目に逢ってきました。しかし、その後敵のような存在だった幕府が大聖人を認め、鎌倉の町で自由に布教できる権利を与え、そのための土地と建物を寄贈するところまでになりました。普通なら、歳も重ねており、今までの苦労が報われるとともに、幕府の権力を背景に教団の境遇も良くなるとして 幕府の申し出を受諾するところですが、それをいともあっさり拒否したのです。


ここに、大聖人が今も多くの人々に尊敬されている姿があると思います。


私は、日本の国家リスクに対して自らの命をかけて諫暁した日蓮大聖人の愛国心にいつも深い感動を覚えます。
日蓮大聖人こそ、日本の歴史上最高のリスクコミュニケーターであり、その気概と矜持をしっかり受け止めていきたいですね。


株式会社淡海環境デザイン
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