ひとりでいることに耐える
研究者でいることの条件の一つは、「孤独に耐える」ことである。
このブログで不安や欲望について語っているが、わたしはまだまだ孤独であることに耐え切れていない。
人間関係のしがらみは安心の絆でもある。
そこから離れても、なおかつ自分の学問欲望を追求できるか。
ニーチェが山に入って孤独に思索したのはなぜか。
孤独であるとき、ひとは感性が研ぎ澄まされる。
雑踏の中の孤独と、山林幽谷の中の孤独。
ひとりでいるときに、創造力が枯渇する気もする。
「ひとりのひとはひとならず」
共同性の中に人間的本質があるのは、和辻もマルクスも語る。
しからば、夏目漱石の「則天去私」はどう理解すべきか。
日雇い派遣の孤独はいかばかりならん。
つらい労働をともに切り抜ける「仲間」がいた時代があった。
熊沢誠は、「ハケン」に孤独ならぬ「連帯」を呼びかける。
しかし、若者はひたすら沈黙の「自己責任」に自ら閉じこもる。
まるで、それが楽しみであるかのように。
他人とかかわるよりも、深夜のコンビニで夜食をひとり買い込む。
日本人が集団主義であるといわれたのは何であったのか。
だが、個人主義になったとは誰も思うまい。
「恋人がほしい」と叫んだアキバの加藤容疑者。
「地獄さ行くだで」とはじまる「蟹工船」はプロレタリアートの団結への展望で終わる。
「連帯を求めて孤独を恐れず」から「孤独を求めて連帯を恐れず」へ。
日本の若者は、恋人同士のDV的親密感情には浸っても、階級的連帯へとは絶対に進まない。
いや、「階級」ってほんとうにあるのだろうか。
「階級って《ある》んだよ」
かつてのわたしのマルクス主義的恩師が神秘的に語った。
いま、日本人はほんものの「個人主義」へむけて陶冶されている。
絶望の向こう側に希望は見出せるか。
ネガティブ発言やめよう
うーんいかん。
ひとつ前の記事はひどいな。
授業をしたらマイナス思考になる。
なんとかせねば。
対人関係悩むよ。
他人との関係を断ち切ったら淋しいし、関わると鬱陶しいし。
帰宅して家族を見るとちょっと安心する。
すみませんでした。
この異常な自信のなさは何だ
啓蒙的研究書を二冊書きました。
一冊は日経新聞に書評が載りました。
医師会で何回か講演会もしました。
テレビ出演の経験もあります。
なのに、どうしても「自分はこれをやっているのだ」という確固たる自信がもてない。
それどころか明日をも知れない不安で毎日が一杯です。
授業を していても消え入りそうな声で崩壊していきます。
なぜかわからない。自分は LOSER だという思いが頭を離れない。
そう、負けているのです。自分にも世間にも。
でも、何の勝負なのかわからない。わからないけど、とにかく負けている。
暑さにも負けているし、学生にも負けている。
特別に何もしていなくても、満々たる自信に満ち溢れている人たちがいる。
彼らは「自分」が出来上がっている。
仕事や勉強に不安を感じていない。
将来にも「自己責任」でやっていけるという確信を持っている。
不思議だ。
こんなに不透明な不安定な世界なのに、どうして安定と安心があるのか。
それとも、根底にある不安に打ち克つ術を備えているのか。
わたしは、みんなの同情をかいたいわけではない。
ただ、わからない。
どこからこの自分の不安がやってくるのか。
欲望ってどこからくるの?
「やりたいことがない」ニートがいる。
欲望があるから資本主義が発展する。
その欲望はどこからくるか。
自分の内面を探しても欲望が見つからない。
他人に勝ちたいという欲望を持つ人がいる 。
すると、人間関係から欲望が生まれるのか。
勝ち組は、欲の強い人たちだ。
性欲がAVを作り出すのか、AVが性欲を刺激するのか。
刺激するものがあるから欲望が生まれるのか。
欲望って、他人がいないと出てこない?
自分ひとりで「やりたいこと」が出てくる人ってどういう人?
孤独に欲望は生まれないか。
ひとりでひとりでにやりたいことがどんどん出てくるように見える人がいる。
ほっておいても、どんどん行動する。
行動というのは、自分自身が決めるもの?これが「自己責任」?
そんなに自分って強いもの?
ニートって弱いから無為になるの?
強い人って欲望が強いということ?
ブログを見ていると、欲望でどんどん仕事しているひとがいる。
一方で、生きるのが苦痛でたまらない人たちがいる。
欲望が妨げられる時、マゾヒズムが生まれるのだろう。
苦痛を快感とする以外に欲望満足の方法がなくなる。
ドSとドMの世界が、勝ち組と負け組を象徴するのかもしれない。
「欲のない人」はいらない
企業や経営者からすると、アグレッシブでやる気のある人材が欲しい。
自発的・自主的に残業して仕事に情熱を燃やし「改善」や「工夫」に取り組む。
いやいややらされて苦しいから労働だというのではない。
確かに、仕事をしびれるほど楽しんでいる人たちがいる。
私のブログを見る人たちは、経営に批判的な人が多いのかもしれないが、かならずしも私はそういう働き方を否定しない。むしろそこまでのめり込むことができるのが、羨ましい。
「何がやりたいのかわからない」という若者がいる中で、みずから労働で自己実現できるのであれば、何の問題もないではないか。それを、企業に飼いならされているというのは言い過ぎだろう。
いまの「働きすぎ」は、単なるワーカホリックではない。過労死予備軍でもない。
むしろ、ほんとうに「自発的」なのだ。
仕事に自己の攻撃性を賭けることができるのだ。
問題はこの「攻撃性」にある。
たとえば、人を自分の思うように動かして目的を達成することにたまらない快感を覚える。
業績をあげて競争で勝つことに情熱を燃やす。
"Self as No.1"なのだろう。
だが、どうしてそこまで攻撃できるのだろうか。人生が闘いなのはなぜか。そういう人たちは「自分との闘いです」と必ず口にする。
一方で「守る」態勢を取る人がいるとは考えられないか。それが負け組への第一歩か。
「疲れを知らない子ども」のように戦い続けることができなくなったとき、うつ病への罠があるのか。
”格闘競技化する労働”
私には、現代の職場がボクシングのリングのように思える。
だが、「観客」は誰だ。
孵らない学者の卵
去年の『前衛』(!)に大学院生がタイトルと同名の論文記事を書いています。内容よりもタイトルが数段すばらしい(失礼!)。
このブログ、大学院生の閲覧(?)が多いのかもしれません。
なぜ彼らは、孵化しないのか。
それは、抱卵してもらってないからに決まってますよね。
でも親鳥の放棄によるものなのでしょうか。
親鳥って昔から気まぐれでしたよね。
いまや、院生は親鳥の抱卵をあきらめて、卵の時期から自立しなくてはならない。
すごいことですよね。
社会的に抱卵器(何か名前ありましたね)を用意するという手もあります。
大学院生が立派な研究書を出版する傾向も強まっています。
でもそういう人が大学に就職できるというわけでもない。
「院生ビジネス」しかないのでは・・・
それにしても、世間の目は「自己責任」一色でしょうしね。
お前ら、企業への就職がいやで怖くて「ご入院」したんだろう、ってね。
よしよし、立派な「病気」になって見せようじゃないですか。
ヴィトゲンシュタインのように。
自分で自分の病気を治療することが孵化の前提条件です 。
ご機嫌なサイバーエージェント
このブログはじめて一週間ですが、すごくよくできているシステムですね。
ペタが面白くて、ペタペタやってると返しペタがあってこれが面白い。
サイバーエージェントは新書『不機嫌な職場』のなかで、ご機嫌な職場として描かれています。
藤田晋さんの『ジャパニーズ・ドリーム』も読ませてもらいましたが、強烈なエネルギーですね。
HPの方では、こういう働き方を「自己愛型仕事倫理」といって、ヒルズ族を中心にアグレッシブな若手に広まっていると書いてます。
いま、一部でワーキングプアやネットカフェ難民などの格差、貧困が取りざたされていますが、藤田社長はじめサイバーの社員は、これについてどう考えているのでしょうか。
負け組の働き方で自分たちには縁がないとか・・・
それとも、明日は我が身なのか・・・
アメブロのなかでは、私のようなブログはちょっと異色な気もしますが、というか硬すぎますよね。
「目立ちたい」「誰かに認められたい」「いつも私のことを見て」などなど、自分も含めて自己愛の人々が増えているのです。それが、強烈な仕事のエネル ギーにもなるし、負け組の嫉妬心にもなる。
マドンナのボーダーライン
マドンナの曲に「ボーダーライン」というのがあるが、あれって「境界例」のことを歌ったものなの?
マドンナやマリリン・モンローにもそれらしき傾向がありますね。
境界例を生きる女性は、なぜあんなにも魅力的なのだろうか。
フロイトが「神経症」の治療をした女性も、その多くが、いまでいえばボーダーだったのではないか。
そしてフロイトが手に負えなくなって見放した患者の中にも、その後、社会革命家として立派に再生する女性がいた。
マスターソンも言っているが、境界例の患者の生きる一つの道は社会貢献ではないだろうか。
その独特の魅力が革命との親和性を有している。
映画「17歳のカルテ」を見たことがありますか。
学生運動、ヒッピー、ドラッグ、ベトナム戦争、そういった時代背景に若い女性たちが「人格障害」として病院生活を送る、だが、映画では、彼女たちが積極的に社会運動に身を投じたわけではない。
境界例とも言われた太宰治も一時期共産主義運動にシンパサイズする。
やはり境界例と言われる尾崎豊も革命的な異端児である。
最近の精神分析によるボーダーラインの治療は、あまりにも個人の側面に傾斜しすぎていないか。
フロイトの向こう側にマルクスを見たいとは思わないが、どこかに「社会と出会う」ということの意義を見出せないか。いやいや、人格障害の問題はどこまでも「個人」の病理なのですよ?
フーコーやドゥルーズに境界例を語ってもらいたかったなあ。
無為と人間関係
和辻哲郎を読んでいると、どうやらわれわれの行為は人間関係と密接不可分らしい。
私が書いたかつての二冊の本は、あきらかに「アカデミズム」との集団的人間関係を前提にして書かれた。
教授や指導教官やかつて痛い目に遭わされた人々との関係が念頭にあった。
もちろん、編集者というかつて経験したことのない人との関係もあった。
だが、いまはアカデミズムをほとんど意識することがない。
学会にもいかないし、研究発表もしない。「関係性からの自由」に呪われている。
だから「書けない」のかもしれない。
人間関係から自由になった「真空地帯」では、孤独と不安が支配する。その上に貧困だ。
「孵らない学者の卵」という記事を見かけた。
学会は私にとってあきらかに桎梏だと感じる。だが、縛られるからもがくのかもしれない。
ひきこもり的無為は、人間関係を一旦徹底的に遮断して、その上で創造性の病に陥るのかもしれない。
だが、あらたな関係性もある。それは、読者と顧客だ。
「お客様は神様」というのが日本資本主義の宗教だろう。
誰のため、何のために書くのかに絶望しそうに なったとき、それを読む人がいることを凛凛と思い起こさなくてはならないだろう。
新刊書籍の宣伝
私の知人の三脇先生らが本を出版されます。
一声かけていただければ、割引もあるようです。
どうかよろしくお願いします。
医療環境を変える
「制度を使った精神療法」の実践と思想
多賀茂・三脇康生 編
A5上製・400頁・税込 約5,700円
ISBN: 9784876987511
発行年月: 2008/08
在庫なし表示価格は予価 8月下旬発売予定
目次
はじめに
第一部 実践編
第1章 制度を使った精神医療の実践
ラ・ボルド病院とセクター制度
第1節 ラ・ボルド病院という場所〔多賀 茂、三脇康生〕
第2節 Documentラ・ボルド病院の経験〔ジャン・ウリ、ラ・ボルド病院スタッフ〕
第3節 制度分析とセクター制度は両立可能か
セクター制度の歴史と現状から〔ティロ・ヘルド、和田 央〕
第2章 日本の精神医療現場での試み
四つの例
第1節 市民団体による地域生活支援活動の試み
横浜市中区・南区の精神保健福祉サービス活動の例〔菅原道哉〕
第2節 救急という制度を使う試み
京都府南部地域の例〔和田 央、波床将材〕
第3節 病院内における制度を使った芸術療法の試み
沖縄いずみ病院の例〔高江洲義英〕
第4節 外から病院に働きかける試み
精神医療審査会の例〔平田豊明、ミシェル・オラシウス、三脇康生〕
第3章 身近なところから制度に取り組むために
第1節 医師という制度を分析する
第2節 Document 看護師という制度を分析する〔ジャン・ウリ、吉浜文洋〕
第3節 医療環境という制度を分析する(デザイン・蓮見孝 写真・田村尚子 建築・高崎正治)
第4章 日本の精神医療と制度を使った精神療法〔三脇康生〕
実践篇のまとめとして
中間部 対話編 制度という論点をめぐって
第1節 Document 常識を外すことで看護システムを動かす〔野沢典子〕
第2節 Document 制度を使うとはどういうことかーひきこもりの問題から〔上山和樹〕
第二部 思想編
第5章 制度を使った精神療法の思想
第1節 Document 制度を使った精神療法とはなにか〔ジャン・ウリ〕
第2節 治療概念として
ウリの転移概念とウリの分裂分析の拒否について〔三脇康生〕
第3節 現代思想として
制度とゲシュタルト――トスケイェス、ウリ、ガタリ〔合田正人〕
第4節 社会運動として
新たな戦い――フーコーとガタリ〔多賀 茂〕
第6章 制度を使った精神療法とその周辺
第1節 精神療法の歴史から
その治療理念のクロノロジー〔江口重幸〕
第2節 ラカン派の視点から
制度を使った精神療法とラカン派応用精神分析〔立木康介〕
第3節 イタリアの例から
バザーリアと制度を使った精神療法――脱施設化から脱制度化へ〔松嶋 健〕
第7章 根を枯らさないために〔多賀 茂〕
思想編のまとめとして
おわりに
索 引
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