さて、『珠光』の時代より、「四畳半」が基本のように考えられていると書きましたが、この「四畳半」敷の茶室が難解なのです。
と言いますのも、『珠光』の時代の文献がないようなので(ということになっているので)、その時代の「四畳半」敷の茶室を直接知る術はありません。
しかし、後の文献の『烏鼠集(うそしゅう)』では、「四畳半」敷について、「珠光堺の金た屋にて四畳半を仕初し 道具なきにハ六畳さひしきとて」とあります。
この『烏鼠集』は元亀年間(1570~1573)に成立したのですから、『珠光』の時代と同時代ではなく、『珠光』の時代より70~80年後の文献になります。
この「堺の金た屋にて四畳半を仕初し」が何を意味するのかです。
もし、この時初めて堺の『誉田屋宗宅』に「四畳半」を造ったとすれば、それまでは『珠光』が「六畳敷」を好んでいたことになります。
そうなると、『山上宗二記』の「珠光ハ四畳半」、「引拙ノ時迄ハ珠光ノ風体也」とあるのと矛盾します。
とすると、初めて堺の『誉田屋宗宅』に「四畳半」を造ったとは何を意味するのでしょうか?
お付き合い下さり、ご講読ありがとう御座います。
ではまた。