珠光四畳半「茶の湯の歴史87」茶の歴史87 | Souki一観一楽有難うの茶の湯ブログ

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教えることが天性と思い、茶の湯関係(点前、茶の湯教科、お茶事、茶の湯の陶磁器、茶杓の実技)を54年間、NHK文化センター大阪、神戸、名古屋などで1999年から延べ4万5千人の方々に茶の湯の極意をお伝えして、2022年4月からオンラインZOOMライブ入門講座を開講中。一茶一楽

さて、『珠光』の時代より、「四畳半」が基本のように考えられていると書きましたが、この「四畳半」敷の茶室が難解なのです。

 

と言いますのも、『珠光』の時代の文献がないようなので(ということになっているので)、その時代の「四畳半」敷の茶室を直接知る術はありません。 

しかし、後の文献の『烏鼠集(うそしゅう)』では、「四畳半」敷について、「珠光堺の金た屋にて四畳半を仕初し 道具なきにハ六畳さひしきとて」とあります。 

この『烏鼠集』は元亀年間(1570~1573)に成立したのですから、『珠光』の時代と同時代ではなく、『珠光』の時代より70~80年後の文献になります。 

この「堺の金た屋にて四畳半を仕初し」が何を意味するのかです。 

もし、この時初めて堺の『誉田屋宗宅』に「四畳半」を造ったとすれば、それまでは『珠光』が「六畳敷」を好んでいたことになります。 

そうなると、『山上宗二記』の「珠光ハ四畳半」、「引拙ノ時迄ハ珠光ノ風体也」とあるのと矛盾します。 

とすると、初めて堺の『誉田屋宗宅』に「四畳半」を造ったとは何を意味するのでしょうか? 

お付き合い下さり、ご講読ありがとう御座います。 

ではまた。