内容を吟味していくと、この時代に、唐物荘厳の「書院の茶」から「麁相」な道具を好んだ「わび茶」の世界を構築しようとしていたことがわかります。
しかも、この変遷を見ていくと、「わび茶」の発生とは「名物」を礼賛する価値観への否定であったことがよく解ります。
また、このような価値観の変化は道具の順序などにもよく表れております。
先行する「正月本」では茶入を「茄子」「肩衝」の順で記していましたが、後の「二月本」ではこれが逆に、「肩衝」「茄子」の順に転換しています。
その原因は、「書院の茶」に向いているとされていた「茄子」から小間向きの実践的な「肩衝」へと、数寄者の評価が移っていったからではないでしょうか。
すなわち、床や脇棚や台子に飾ることを目的とした茶入から、実質的に使うための茶入ヘとの価値観の変化が、このような具体的なものの変化を来たしたのだと思います。
「麁相」な道具であっても良い、まず、使える好ましい道具。
そのことはまた、『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」とあるように、高麗茶碗が盛んに使われるようになり、形さえ良くて好ましければ「数寄道具」なるといっているのです。
「わび茶」の発生はこのような時代を背景としており、『山上宗二記』の内容からは生々しくその空気を読み取ることができます。
お付き合い下さり、ご講読ありがたく、ではまた。