20世紀の哲学者フーコーは『言葉と物』において「人間の死」を宣告したことでよく知られている

また、ロラン・バルトは小説などの人間の創作物における「作者の死」を宣言したことも、よく知られている

これら「人間の死」「作者の死」という言い方は、当時の「流行」である構造主義の影響によって登場した

それまでのサルトルらの実存主義、というよりも、さらにさかのぼってデカルトによる「思考する我」に依拠した思考と、「人間」「主体」「理性」といった概念のをもとに思考するということが批判された

その結果、たとえば一編の小説があれば、その小説の作者がどういった人間でどういった意図でその作品を描いたのかといった分析をするのではなく、その作品自体がどういった解釈が可能なのか、またどういった(深層)構造をもっているのか、どういった社会的効果があるのか、といった方に「読み」の比重が置かれた――

こうした構造主義的な言説の生成を、生成AIが実用化した今振り返ってみると、生成AIが出力する言説との近似性を感じる

ただし、両者は似ている部分もあるが、決定的に異なる部分もある

以下では、この両者の近似性と差異を整理してみたい

1 構造主義と生成AIの類似性

以下、三つの観点から類似性を整理する

1-1 言説は主体の外部で生成される

フーコーは『言葉と物』で、人間を「近代の発明」にすぎないとし、言説は主体の内部からではなく、制度・知の配置・言語体系といった外部の構造によって生産されると考えた

生成AIも同様に、個別の「作者」、個別の「意図」を持たず、膨大な言語データの統計的構造から言説を生成する

つまり、どちらも「主体の死」を前提に、構造が言説を生むというモデルで動いている、と言える

2-2 作品の意味は作者ではなく構造から立ち上がる

構造主義は、作品の意味を作者の心理や意図ではなく、言語構造や文化的コード、社会的制度から読み解こうとした

生成AIの出力も、「この文章は誰が何を意図して書いたか」ではなく、「どのような言語的・文化的パターンから生成されたか」という観点で理解される

1-3 作者の死=生成主体の匿名化

バルトが述べた「作者の死」は、作品の意味を作者に帰属させるのではなく、読者や文化、言語体系に開くという宣言だった

生成AIの文章も、固有の作者がおらず、「意図」というものをもたず、文化的コードの結節点として現れるという点で、まさに「作者の死」を体現している

2 構造主義と生成AIの差異

しかし、生成AIは構造主義と完全に一致するわけではない

むしろ、構造主義の限界を露呈させる側面がある

2-1 AIは構造そのものではなく構造の「模倣装置」

構造主義が扱った「構造」は、言語体系、社会制度、知のアプリオリといった、歴史的・文化的に形成された、実在の構造だった

一方、生成AIが扱う構造は、データ集合から抽出された統計的パターンであり、構造主義が想定した「深層構造」とは異なる

AIは構造を模倣するのだが、構造そのものではない

2-2 AIは「主体の死」を前提にしつつ、同時に「擬似主体」としてふるまう

構造主義は「主体」を解体したが、AIは逆に、一貫した語り手として意図を持つかのような応答(人格的な対話)をユーザーに提供する

つまり、AIは「主体の死」を体現しながら、同時に「新たな主体の幻影」を生み出している

「新たな主体」ではなく、その「幻影」を生み出しているのである

これは構造主義にはなかった

*この「新たな主体の幻影」こそボードリヤールの「シミュレーション」と「シミュラクル」の議論であろうかと思うが、この論点は、また次の機会にもちこしたい

2-3 AIは「意味の生成」を「構造」ではなく「確率」で行う

構造主義は意味の生成を「体系的・構造的」なものとしてとらえたが、AIは「体系」ではなく「確率」、「構造」ではなく「統計」によってディスクールを生成する

この違いは決定的である

3 とりあえずのまとめ

生成AIは、構造主義が宣言した「作者の死」「人間の死」を技術的に実装したが、同時に「新しい主体の幻影」を生み出している点で構造主義を横超している

つまり、フーコーが理論的に解体した主体、バルトが文学的に殺した作者を、AIは実際に「消し」ているのだが、しかし「新しい擬似主体」の生成も行っているのではないか

これは、構造主義の延長であり、同時に構造主義の外部でもある