読んだ本

「関さんの森」の奇跡 市民が育む里山が地球を救う

関 啓子

新評論

2020年1月

 

ひとこと感想

副題は大袈裟に聞こえるが、実践の現場におけるこうした小さくとも確かな取り組みが、明日の未来を切り拓く力となってゆくに違いない。特に、ここで得られた「コモンズ」への感覚は他の日常の一コマでも活かされることだろう。

 

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「里山」がキーワードであるが、副題にある通り、「里山」を大切にすることが、「地球環境」全体を「救う」こととつながっている、というのが著者の考え方であり、これまでの実践の動機である。

 

「一人ひとりの里山へのかかわり方が、今日と明日の私たちの生活の質、そして命や健康に直結しているのです。決して大げさなことではなく、地球の命運までも左右する」(ivページ)

 

3部構成になっており、第1部「里山論」では里山の意味と価値を学問的に説明し、第2部「里山を育み、護る運動」では実践活動の内容を描き、第3部「里山保全イノベーション」では里山を守り育てる方法について具体的に紹介している。

 

第1部では、宮内泰介、桑子敏雄、中静透、宇沢弘文らの名前が登場する。ほか、アレックス・カー、イーフー・トゥアン、五十嵐敬喜、金子郁容、アラン・トゥレーヌ、セルジュ・ラトゥーシュ、ユルゲン・ハーバマス、クルト・レヴィン、広井良典、見田宗介、藻谷浩介、吉見俊哉といった名前が登場する。大半がなじみのある名前なので、言われている内容については、とてもなじみやすい。ただ、その分、理論的な面に斬新さは特にないので、そこには期待するべきではない。

 

ところで「関さんの森」とは、千葉県松戸市幸谷にある2.1ヘクタールの土地の呼称である。行ったことがないとしても、聞いたことがないとしても、ワールドウォッチ研究所を創設したレスター・ブラウンが訪れたこともある、というだけで、十分に「意味」が見出せる。

 

(レスター・ブラウンについては、かつてブログでとりあげたことがある。 → データでわかる 世界と日本のエネルギー大転換 R・ブラウン 岩波ブックレット 2016.01)

 

タイトルと著者名をみて、おおよそ察しがつくが、「関さんの森」の「関さん」と、著者は、密接なつながりがある。著者の父親が先代の所有者である。

 

この「父」が、1967年、地域の子どもたちに屋敷林を開放したことから、最初の契機となる。すなわち「公共性」を問う土台が生まれる。

 

当初は「こどもの森」と呼ばれていた。土地所有者の名前がついていないところにも、この「公共性」とのつながりが垣間見られる。近隣の人たちにとっては、大切な場所として日常の中に溶け込んでいた。

 

ところが、彼が1994年に亡くなり、著者を含む3人の姉妹がこの土地を相続することになる。税金負担が困難なため、やむなく自然保護系の財団に寄付する。

 

「こどもの森」に加えて周囲の土地をあわせた場所が、あらためて「関さんの森」と名付けられる。もちろん「関さん」という名前が入るが「公共性」の価値を目指していることは変わりなく、1996年には、保全に賛同する方々が集結し「関さんの森を育む会」を結成する。

 

賛同者の力によって、保全にとどまらず、環境教育など、社会貢献をはたす。また、エコミュージアムをつくろうという動きが中島敏博を中心につくられる。

 

ところが、2008年になって、突然、行政が「関さんの森」を土地収用法に基づいて強制収用の手続きをはじめようとする。簡単に言えば、道路をつくるためにこの土地を使わせなさい、という命令が下されそうになる。

 

それから10年ほどのあいだ、道路という交通の公共性と里山という生物多様性と環境教育、市民の憩いの空間という公共性との、いずれが大切なのか、という闘争が繰り広げられる。

 

とりわけ第二次世界大戦以降、日本では、道路建設は経済成長を是とした国策のなかでもひときわ優先度の高いものとして受け止められてきた。しかし、それは1970年代から1980年代あたりをピークとして、その後、次第に疑問視もされてきたので、21世紀に入った昨今では、それほど行政も阿漕なことはしないのではないか、と思っていたが、本書を読むと、現場では必ずしもそうではなく、一度決められた施策に対しては、かなり強硬に行政が動くこともあることが伺える。

 

そうした、時には強制立ち入り検査を強行しようとするなど、行政側の激しい攻勢もあったものの、市長や県知事による賛意も得られたこともあり、2009年には、森を迂回するルート案に落ち着きはじめる。その後もごたごたがあったとはいえ、2019年5月、最終的に迂回変更が確定する。

 

――実践の流れは大雑把には以上の通りであるが、ここから導き出されるものは何であろうか。

 

一言でまとめるならば、多くの志と理念を共にする市民が集まれば、行政の一方向的な企ては阻止できる可能性がある、ということである。しかも、市民の側の考えが、行政の考える公共性とは異なっていたとしても、十分な合理性のある説明があれば、別の公共性として受け入れられる、ということを示している。その意味で、この実践の成果の意義は、きわめて重い。

 

私の師、イバン・イリイチであれば、「コモンズ」としての「里山」の持つ意味を強調するとともに、「インダストリアル」と「バナキュラー」という対抗軸を持ち出し、「道路」という「社会資本」に勝る「里山」という「社会的共通資本」(宇沢)の価値を優先させることに成功した事例としてとらえたことだろう。

 

実践においては、こうした概念整理はある意味無力なようにも思えるが、少なくともその当初において、活動の原点には、ある種の「理念」があり、その理念を阻害しようとする動きに対して、この理念を共有したうえで、その保全に向けて多くの人の協力のもとに実践活動を行ってゆけば、行政側と十分に拮抗できる、ということになるだろうか。

 

本書では「バナキュラー」という言葉は用いられていないが、生物多様性と同じ重さで、その土地その地域には固有の文化が長年にわたって築き上げられている。そうした「文化」の価値を含めた「環境」は、一度破壊されてしまうと、そう簡単には戻らない(どころか、永遠に取り戻すことは難しい)。それゆえ「コモンズ」として生きる「場所」の維持や整備、活用は、道路によってもたらされる経済的効率性や生活の利便性などとは比べものにならないくらいの価値がある。

 

どの土地であっても、どの地域であっても、「関さんの森」のような場所はある。その土地が、そこで暮らしている人たち、そして、その土地にかかわっている人たちによって、いつまでも良いかたちで継承されてゆくことを切に願いたい。

 

しかし、本書から学ぶべきことは、ここでとどまってはならない。

 

コモンズに対する「感覚」すなわち、「コモンズ・センス」を磨き、日常を見直し、日常をよみがえらせることである。

 

私たちは多くの場合、個人の「センス」について、「コモン・センス」を参照しながらそれが世間で正当であるかどうかを確かめながら生きている。

 

その大半は、両者はほぼ一致する。しかし、一部、齟齬をきたすことがある。

 

「関さんの森」は関家の人たちだけでなく、関係者の方々もまた、自分たちの「センス」と、役所が盾にした「コモン・センス」とに、大きな隔たりがあることに困惑したに違いない。

 

本書を門外漢が読む意義があるとすれば、こうしたことは、常日頃、起こりうることであり、「里山」を「道路」にする、ということだけにとどまらず、そうした「ずれ」のようなものに対して、その都度、自分がどのように考え、どのようにコミットするのか、ということにあるだろう。

 

いらなくなった書類の束を捨てるかどうかでも、とらえ方が他者と異なるかもしれない。ある人にとってその書類は、「ミュージアム」の大切な「アルシーブ」としてとっておくべきものなのではないか、と考えるかもしれない。

 

本書を読むことに本当の意味で価値があるとすれば、こうしたことに「センス」が向き合うことができるようになり、「コモンズ・センス」が豊かになる、ということではないだろうか。