(この像は一体、何を目指しているのだろうか、栃木県にて)

 

読んだ本

「反原発」異論
吉本隆明
論創社
2015.01
 

本書に書かれているプロフィール「1924年東京生まれ。東京工業大学卒。苛烈な労働争議と深刻な三角関係を経る。59~60年日米安保条約改定に反対する共産主義者同盟に共鳴し、一兵卒として参加。61年自立的同人誌「試行」を創刊。日本が世界に誇る文学者・革命思想家。2012年没。初期の代表作「日時計篇」など。」

 

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編者あとがきには、本書に収録したもの以外に、以下を読んではじめて吉本の「原発に対する考えのほとんどはわかる」(272ページ)と書かれている。

 

「反核」異論

深夜叢書社、1983年

 

エチカの闘争(1989年2月)

「情況への発言」全集成3、洋泉社、2008

 

エコロジー談義II

情況としての画像

川出書房新社、1991年

 

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目次      

悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い 副島隆彦

1 3・11/以後

絶えずいつでも考えています 

on reading 本を開けば
朝日新聞

2011.03.20
 

「家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なってしまったとき、どっちを選択することが正しいのか」(17ページ)

 

これは津波被害についてのコメント。吉本はマルクスならびにレーニンがこのとき「私」をとるのが「マルクス思想の本流」としている。

 

精神の傷の治癒が最も重要だ

われらは何をなすべきか

文藝春秋

2011.05月号

 

ここでも原発事故のことはふれられていない。

 

吉本隆明「東北」を想う

飢餓陣営 36号

2011年夏号
 

こちらも原発のことはふれられていない。宮沢賢治を中心に語っている。

 

科学技術に退歩はない

宍戸譲

毎日新聞

2011.05.27

 

これは直接吉本が書いたり語ったものではなく、記者による記事である。ここでは津波被害だけでなく、原発事故にも言及している。

 

「動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、もとに戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」(57ページ)

 

これがその後一般的に吉本の考えとして「流通」しているものであるが、本文には最後に「ただ」という但し書きがある。

 

「人間個々の固有体験もそれぞれ違っている。原発推進か反対か、最終的には多数決になるかもしれない。僕が今まで体験したこともない部分があるわけで、判断できない部分も残っています。」(58ページ)

 

「判断できない」というのは、何についてなのか、これだけではよくわからない。が、ある種の留保があると考えてもよさそうである。

 

これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる

思想としての3・11

河出書房新社

2011.06
 

ここではもう少し分析的な発言を行っている。原発にかぎらず、そういうことを可能とする科学技術を獲得した文明そのものを問おうとしている。

 

「素粒子を見つけ出して使い始めた限り、人間はあらゆる知恵を駆使して徹底的に解明してゆかないと大変な事態を招く時代になってしまった。原子力は危険が伴いますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人間や人類は本当にアウトですね。」(66ページ)

 

科学技術は「発達」するしかないが、人間または人類は「終わりが近づいている」という恐れも隠せないのである。原発に賛成、反対という次元ではなく、この「終わり」に向かってどう生きるのか、ということは、ある意味、逃げ道がないようにとらえているようだ。

 

原発に反対したからといって、逃げられない、という絶望感を見出すべきか。

 

東京にいると、暗いんです

震災後のことば

宮川匡司編日本経済新聞社出版

2012.,04

 

前のものと同じような論調である。

 

「危険なところまで科学を発達させたことを、人類の知恵が生み出した原罪と考えて、危険を覚悟の上で、防御の仕方を発達させていくしかない。」(86ページ)

 

「防御の仕方」というのは、例えば、もっと安全な原発をつくる、防護体制を整える、といったことと思われるが、そればかりでなく、いったん使用中断し、防護技術や体制をしっかりとたてなおしてから、いずれ再開する、という意味合いも含まれるのだろうか。このあたり、もう少し聞いてみたいところであった。

 

「今の原子炉のように、あんな、ごまかしみたいなものではだめ。科学者や技術者を組織的に動員してもっと完璧な防御装置を責任を持ってつくるべきです。」(87ページ)

 

風の変わり目―世界認識としての宮沢賢治

ユリイカ

青土社

2011.07

 

省略
 

科学に後戻りはない

8・15からの眼差し

日本経済新聞

2011.08.05

 

この記事は、上記の宮川匡司のインタビューをまとめたものであり、内容は同じだが、やはり細かなニュアンスが伝わりにくくなっているので、上記を読んだほうがよい。

 

八十七歳は考え続ける

ビッグ・トゥモロウ

青春出版社

2011.08

 

これも基本的に同じ論調。

 

「未来への道を進むには、つねにいぱ以上のものを作るか、考えだすしか方法はないんです。」(120ページ)

 

吉本隆明「反原発」異論

撃論3号

オークラ出版

2011.11

 

「原発の問題というのは、安全対策にお金をかけるかかけないかの問題なんです。」(123ページ)

 

歴史上、やめてきた科学技術は多々ある。「原子力」の利用は、多様であり、たとえば、兵器として使用することも、やめようとしている。同じように、発電に使うことも、やめてもよいのではないか。しかしそれが、原子力の利用をやめることにはならない。なぜならば、放射線はさまざまな分野で活用されているからだ。原発への異議申し立ては、そうした放射線利用をすべてやめるということではないはずだ。だが吉本はそこで論点をすりかえている。

 

「その時代の最高の知性が考え、実用化した技術がある。それを単に少しの失敗があったからといってすぐに止めるというのは、近代技術、もっといえば進歩を大事にしていく近代の考え方そのものの否定です。もし、どうしてもそうした近代の考えが合わないなら、頭で考えることは全部やめにして、耕したり植えたり魚を獲ったりという、前近代的生活に戻らざるをえません。」(125ページ)

 

こうした「近代主義」は、以前も書いたように、ハイパーな前近代主義をとらえることができない。風の谷のナウシカが何を得たのかということを、見つめなおす機会があってもよい。

 

「詳細にちゃんと検討して、考えた上でこれはどうしてもやめる他ないという結論に達したら、僕はそのときはやめていいと思います。」(126ページ)

 

「反原発」で猿になる

週刊新潮

2012年1月5・12日号
 

これまでのまとめのような文章であるが、上述したような、微妙なニュアンスが消されて、断固した物言いとなっている。これは正直誤解を招く。いわば、吉本の言葉を利用したプロパガンダとなっている。

 

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2 3・11/以前
 

詩と科学との問題

詩文化 第8号

1949.02.15

 

“対談”科学の普遍性を問う―長崎浩・吉本隆明

中央公論

1981.10月号

(70年代を過る 長崎浩対談集、鹿砦社、1988)

 

原子力エネルギー利用は不可避
婦人画報

1986.8月号

 

科学技術を語る/ 小浜逸郎, 高野幸雄聞き手

ておりあ 第6号

1987.10.31

 

科学技術の先端

社会風景論12

産経新聞

1994.03.06

 

原子力・環境・言葉

原子力文化

日本原子力文化振興財団

1994.10

 

付論 自然科学者としての吉本隆明  奥野健男

 

編者あとがき 宮下和夫

 

 

「反原発」異論「反原発」異論
1,944円
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動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。吉本思想の到達点。